露清密約下の満州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 07:32 UTC 版)
三国干渉下で日本から遼東半島を返還させた清国は、対日賠償金の借款供与と引き換えにロシア帝国と露清密約(1896年6月)を締結し、満州でのロシア帝国の駐留や権益拡大を了承した。これにより日露戦争終結までの満州は、現地居住民地域などでアムール川事件(1900年)などの大虐殺も発生するような不穏な情勢となっていた。 1904年2月に日露戦争が勃発し、 4月30日から5月1日の鴨緑江会戦でのロシア軍撃破などが報じられると、同年5月13日に清の慶親王はこの満州に関する密約の存在を初めて公表した。慶親王は露清密約の破棄を一方的に訴えたが、ロシア帝国側でも満州は既に支配下の半植民地状態であり、日露戦争の原因となった密約の存在が国際的に周知されただけであり、開戦後の一方的な破棄宣言は何ら効力も生じなかった。
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