第二次カーナティック戦争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/28 00:56 UTC 版)
「アンワールッディーン・ハーン」の記事における「第二次カーナティック戦争と死」の解説
第一次戦争が終結した同年、デカンのニザーム王国では、アーサフ・ジャーが死亡し、息子のナーシル・ジャングと孫のムザッファル・ジャングが王位を争っており、フランスはこれに目を付けた。また、同じ頃にマラーター本国で幽閉されていたチャンダー・サーヒブも開放された。 また、フランスはカルナータカ地方政権とニザーム王国の内部争いに関与し、デュプレクスはチャンダー・サーヒブやムザッファル・ジャングと同盟を結ぼうとした。ムザッファル・ジャングも叔父ナーシル・ジャングを倒すため、チャンダー・サーヒブもアンワールッディーン・ハーンから太守位を奪うためにこれに参加した。 そして、1749年8月3日、アンワールッディーン・ハーンはアンブールで、フランスとチャンダー・サーヒブ、ムザッファル・ジャングの連合軍と戦い、敵の凶弾に斃れた(アンブールの戦い)。 これにより、第二次カーナティック戦争が勃発し、チャンダー・サーヒブとアンワールッディーン・ハーンの息子ムハンマド・アリー・ハーンの二人がカルナータカ太守として併立することとなった。
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