ナジュド及びハッサ王国
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- ナジュド及びハッサ王国
- إمارة نجد والأحساء
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← 1902年 - 1921年 → (国旗)
1913年時点のナジュド及びハッサ王国の領土-
公用語 アラビア語
オスマン語
ペルシア語首都 リヤド - 国王
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1902 - 1921 アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード - 変遷
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設立 1902年 改名 1921年
ナジュド及びハッサ王国、ナジュド及びハサー首長国(ナジュドおよびハッサおうこく、Emirate of Nejd and Hasa)は、サウジアラビアに1902年から1921年まで存在した国家である[1]。 三番目のサウード家の国家で絶対君主制であった[1][2]。 歴史家によってはリヤド首長国とも呼ばれる[2]。
歴史
この国は1902年、サウード軍がリヤドの戦いで ラシード家のジャバル・シャンマル王国から 第二次サウード王国の本拠地リヤドを奪還した時に設立された[2]。 そして、この国家はさらに征服をしていき、その後1921年、ナジュド・スルタン国となった。
出典
ナジュド及びハッサ王国
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「サウード家」の記事における「ナジュド及びハッサ王国」の解説
1902年のリヤドの戦い(英語版)に至ってアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがリヤドを奪還し、サウード王国を復興した(ナジュド及びハッサ王国)。その後、en:Battle of Dilamとサウード・ラシード戦争(英語版)(en:Battle of Unaizah (1904)、en:Battle of Bekeriyah (1904)、en:Battle of Shinanah (1904)、en:Battle of Rawdat Muhanna (1906)、en:Battle of Tarafiyah (1907))が続いた。 第一次世界大戦(1914年~1918年)でオスマン帝国はドイツ帝国などからなる中央同盟国の一つとして参戦。イギリスなどと戦い、中東各地で戦乱が起きた(中東戦域 (第一次世界大戦) )。 サウード家が関連する第一次世界大戦期および終戦直後の戦闘としては、en:Battle of Jarrab(1915年)、en:Al-Khurma dispute(1918年 - 1919年)、クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)(1919年 - 1920年)がある。
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