クセルクセス1世の侵略とは? わかりやすく解説

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クセルクセス1世の侵略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 04:55 UTC 版)

ペルシア戦争」の記事における「クセルクセス1世の侵略」の解説

詳細は「en:Second Persian invasion of Greece」を参照 ダレイオス1世は、再度侵攻の準備進めたが、エジプト反乱バビロン反乱実現できぬまま、紀元前486年没した王位継いだクセルクセス1世遠征乗り気ではなかったが、最初侵攻司令官務めたマルドニオス説得により、紀元前484年バビロン平定し次いでエジプト平定すると、ギリシア遠征決意した紀元前481年夏、クセルクセス1世王都スーサ発ち全軍集結カッパドキア地方のクリタラ(Kritala)を経て小アジア拠点サルディスに入ると、ギリシアの各ポリス使者送り降服迫った。これにより、マケドニアテーバイなどのポリスペルシアについた一方でペルシアアテナイスパルタには使者を送らなかった。 マルドニオスメガビュゾスらの指揮するペルシア遠征軍は、ヘロドトスの記述によれば歩兵170騎兵8戦車隊など2万加え水軍517000以上(これは三段櫂船1207隻、その他の船舶輸送船3000からなる)これらにヨーロッパ各地から援軍加えた総計5283000以上という大規模なものであったという。しかしこれは明らかに誇張され数字であり、兵站学上も当時これほど大軍勢を維持することは不可能と考えられるため、実際に動員され兵力について諸説ある。少なく見積もった説で5万程度多く見積もった説で100万程度開き大きいが、いずれにせよギリシア側の兵力船舶はるかに超える規模であったことは間違いない紀元前481年秋には、ペルシア軍の再度来寇ギリシア各地伝わりペルシア脅威疎かった諸国危機認識する至ったアテナイの政治テミストクレスは、スパルタ働きかけイストモス会議を開くことを決め抗戦意志固めたポリス代表者招いた。ここで、ポリス間の紛争即時終結(特にアテナイアイギナ間の紛争処理)、サルディスへのスパイ派遣ケルキュラシチリア島クレタ島対す援軍要請宣言された。紛争停止スパイ派遣はただちに実行され、ここにギリシア連合呼べ体制整った援軍要請は、シチリア島シラクサカルタゴ脅威により援軍派遣断念第一次シケリア戦争)、反スパルタ主義貫徹するアルゴス中立ケルキラ趨勢見極めるために中立クレタ島デルポイの神託に従って中立など、空振り終わったまた、ペルシア攻撃真っ先に受ける位置にあるポリスなどにはペルシア側につくものもあり、必ずしもギリシア人一枚岩になったわけではなかった。 紀元前480年5月頃、ギリシア都市連合は再びイストモス会議開き破竹の勢い侵攻進め30ペルシアに対して抗戦降伏かで揺れていたテッサリアの親ペルシア派を威嚇するため、テンペ峡谷に約1万の兵を派遣した。しかし、テンペ派遣軍はマケドニア王アレクサンドロス1世使者ペルシア軍の強大さを説かれ撤退見放されテッサリアペルシアについたテンペ後退後、再びイストモス会議開かれ防衛策が議論された。ペロポネソス半島諸国コリントス地狭での防衛提案したが、アテナイなどが反対した。結局ギリシア連合軍作戦立案担当したアテナイテミストクレスは、テッサリアからアッティカ抜け幹線路にあるテルモピュライテルモピレー)の山間隘路とエウリポス海峡への入り口にあたるアルテミシオン沖に防衛線を築くことでペルシア侵攻食い止める作戦立て合意した紀元前480年8月ギリシア連合軍テルマテッサロニキ)から南下してきたペルシア軍と両地(テルモピュライおよびアルテミシオン)で衝突したスパルタ主力となって防衛あたったテルモピュライの戦いでは、現地集結後に迂回路存在気付いたスパルタ王レオニダス1世が諸ポリス軍勢帰国させた上、300の手勢だけで時間稼ぎをしたが、やがてペルシア側についていた地元民ペルシア軍に迂回路存在教えたために挟みうちの状況となり、レオニダス1世奮闘むなしく防衛線を突破された。テルモピュライでの敗退により、ギリシア軍アルテミシオンからの撤退余儀なくされ、日和見的な立場とっていボイオティアの各ポリスは親ペルシア意志明確にし、これに追従するかたちでカリュストス(英語版)、テノス(英語版)などアッティカ隣接するポリスにも親ペルシア動きをとるものが現れた。 ペルシア軍の接近を受け、テミストクレス布告により、アテナイ住民トロイゼンアイギナサラミス避難した。しかし、避難費用自己負担だったため、財力のない貧民一部聖職者、あるいはデルフォイの神託(「木の壁によれ」)を誤って解釈した者はアテナイのアクロポリス籠城した。ペルシア軍の前にアクロポリス陥落しアテナイは完全に占領され農地蹂躙された。 アテナイ要請避難支援のためサラミス島集結していたギリシア連合は、次の防衛策を検討したペロポネソス半島諸国は、アテナイ制圧された以上、アッティカ半島防衛不要考えイストモス防衛線を築くことを主張した。しかし、テミストクレス断固反対し、敵味方双方篭絡して、なし崩し的サラミス水道での海戦こぎつけたギリシア連合艦隊まとめあげることに成功したテミストクレスは、地の利生かしてペルシア艦隊破った紀元前480年サラミスの海戦敗北によってクセルクセス1世戦意喪失しマルドニオスに後を託し自身バビロニア反乱鎮めるため帰国した陸上部隊ギリシア総司令部のあるイストモスポセイドン神殿入ったが、ギリシア防衛線に攻撃行わずテッサリアからマケドニアまで退いた

※この「クセルクセス1世の侵略」の解説は、「ペルシア戦争」の解説の一部です。
「クセルクセス1世の侵略」を含む「ペルシア戦争」の記事については、「ペルシア戦争」の概要を参照ください。

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