シケル人とギリシア人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:47 UTC 版)
「タウロメニオン包囲戦」の記事における「シケル人とギリシア人」の解説
ヒミルコがタウロメニオンを建設する前、ディオニュシオスは彼が略奪して無人となっていたナクソス(現在のジャルディーニ=ナクソス)に、シケル人が入植することを認めた。しかし、シケル人はこれを評価せず、ヒミルコに協力することを選んだ。それまでのギリシア人との関係が、この決断に影響を与えたと思われる。 紀元前734年、シケリア先住民であるシケル人の領域に、シケリア最初のギリシア人殖民都市としてナクソスが建設された。その時以来、シケル人はギリシア人からの攻撃の犠牲となってきた。続いて、レオンティノイ(現在のレンティーニ)がナクソス市民によって建設されたが、ギリシア人はシケル人と争わないことを約束した。しかし、レオンティノイはギリシア本土のメガラから入植者を呼び、シケル人を追い出した。一方、それでもシケル人はギリシア人と友好を維持していた。ゲラの僭主ヒポクラテスはギリシア殖民都市およびシケル人との戦争のためにシケル人を傭兵として雇用したが、シケル人傭兵を虐殺したこともあった。カマリナ(現在のラグーザ県スコリッティ)のシケル人とギリシア人は、シュラクサイと戦うために協力し、ギリシア文化はシケル人の間に広がっていった。紀元前440年代にはドゥケティオスがシケル人を統合してギリシア人に抵抗したが、ギリシア側も連合してこれを撃退した。紀元前404年、ディオニュシオスはカルタゴへの戦争に先立ち、シケル人都市であるヘルベッスス、ヘンナ(現在のエンナ)およびヘルベティアを攻撃した。このため、シケル人はディオニュシオスを憎んでいた。
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