シケル人の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:34 UTC 版)
紀元前5世紀前半のシケリアは、シュラクサイの僭主ゲロンおよびその後を継いだ弟のヒエロン1世が統治していた。紀元前467年にヒエロンが死去すると、シュラクサイには民主政が復活した。しかし、強力な僭主がいなくなったために、問題も起こった。紀元前460年にはシュラクサイとその植民都市であるカタナ(現在のカターニア)戦争が勃発した。カタナはシケル人の土地を占領していたため、ドゥケティオスはシュラクサイを支援し、カタナに勝利した。その後ドゥケティオスはメナイ(現在のミネーオ)を建設し、またモルガンティナを占領した。 紀元前452年までに、ドゥケティオスはシケリア人を統合して、その中枢として現在のパラゴニーア付近にパリケを建設し、その後シケル人の双子の神であるパリキ(en)の神殿を建設した。パリケは急速に発展し、脱走した奴隷もここに逃げ込んだ。ドゥケティオスは続いてエトナ山の南西にあるアエトナを占領し、続いてアクラガス(現在のアグリジェント)に向かった。 同盟関係にあったシュラクサイは、このドゥケティオスの勢力拡大に懸念を覚え始めた。ドゥケティオスはカルタゴとは異なり、シュラクサイに脅威を与える必要は無かった。しかし、アクラガスの防衛拠点であるモティオンが紀元前451年に占領されると、シュラクサイはアクラガスを支援することを決定したが、ドゥケティオスに勝利することはできなかった。この年がドゥケティオスの「シケル帝国」の最盛期であった。翌紀元前450年、ドゥケティオスはノマエで決定的な敗北を喫する。敗残兵は各地のシケル人都市に逃げ散り、ドゥケティオスの元に残ったのは僅かであった。アクラガスはモティオンを奪回し、ドゥケティオスはシュラクサイへ逃げた。そこで政治的には穏健な集会で裁判にかけられた。ドゥケティオスはシュラクサイの母都市であるコリントスへ永久追放されることとなった。
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