シケル人戦士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:47 UTC 版)
「タウロメニオン包囲戦」の記事における「シケル人戦士」の解説
タウロメニオンを守備したシケル人兵力は不明である。シュラクサイやアクラガスのようなシケリアの大規模都市国家は10,000-20,000の市民を兵として動員でき、ヒメラやメッセネのようなやや小さな都市国家は3,000-6,000の兵を動員可能であった。タウロメニオンもおそらくはメッセネと同程度の兵力を動員可能だったと思われる。 シケル人はイタリアからシケリアに渡って来たと思われ、その軍はオスク人(カンパニア人やサムニウム人)の影響があったと思われる。シケル人は丘の上に要塞を築き、その周囲の村に住んでいた。その市民兵はオスク人やラテン人と同じく、おそらくは百人隊を基本としていた。装備は自前であり、ギリシア式の装備を採用していたと思われる。裕福でない市民は歩兵となり、富裕な市民は騎兵となった。サムニウム兵と同じく、シケル兵は、2本の投げ槍(突きにも使えるタイプ)を持ち、また幾らかは長槍兵で、どちらも丸型の盾を持っていた。兜、脛当て、胸当てを装着し、腹部を守るために幅広のベルトを用いた。幾らかのシケル兵は、ギリシア式の胸当て、軍帽、脛当てを採用していた。騎兵は青銅の鎧を着用し、剣と槍を持っていた。 シケル兵は待ち伏せと山地での襲撃を好んだが、必要であれば投げ槍兵を前方に、長槍兵を後列に配置し、側面を騎兵で守る戦列を組んだ。軽歩兵もまた用いられ、篭城戦では女性や子供もレンガやタイルを高所から投げる投擲兵となった。
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