紀元前398年-紀元前396年のシケリア遠征
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「ヒミルコ2世」の記事における「紀元前398年-紀元前396年のシケリア遠征」の解説
モティアを占領した後、ディオニュシオスはセゲスタとエンテラの包囲を続けさせ、モティアには守備兵を残して自身はシュラクサイに戻った。弟のレプティネスに120隻の艦隊(五段櫂船および三段櫂船)を委ね、エリュクス近くに停泊させていた。この間にヒミルコは歩兵50,000、戦車4,000の陸軍、400隻の三段櫂船と600隻の輸送船からなる海軍を編成した。軍船の数であれば、カルタゴ史上最大の艦隊であった。ギリシア側に情報が漏れるのを避けるために、ヒミルコは各艦長に対して封緘命令書を渡していた。この命令書は嵐などで艦隊からはぐれてしまった場合にのみ開封することが認められていた。カルタゴ艦隊は二つに分かれて航行した。輸送船団は直接パノルムスに向かい、他方軍船は北に向かい続いて東に転進した。レプティネスは輸送船50隻(陸兵5,000、戦車200)を撃沈したが、残りの輸送船は追い風に助けられてパノルムスに到着した。
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