紀元前397年春:ディオニュシオス攻城戦を再開
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「セゲスタ包囲戦」の記事における「紀元前397年春:ディオニュシオス攻城戦を再開」の解説
ヒミルコは紀元前397年春にはカルタゴ陸軍50,000を率い、三段櫂船400隻と輸送船600隻共に、パノルムスに上陸した。レプティネスはこれの阻止を試みたが失敗した。 しかしながら、ディオニュシオスは既にシケリア西部に向かっており、セゲスタに進軍する途中でエリミ人都市のハリキアエ(en)をギリシア軍に加わるように強制した。残留セゲスタ包囲部隊と合流すると、包囲を継続した。ディオニュシオスは夜襲が得意であったが(彼は夜襲でモティアを落しており、またこの後の第一次シュラクサイ包囲戦でも夜襲を成功させている)、セゲスタではギリシア軍が夜襲の犠牲となった。セゲスタ軍は気付かれることなく野営地に接近し、天幕のほとんどを焼き払った。この夜襲による死者は少なかったものの、騎兵の馬は全て失った。ヒミルコが陸軍と共にシケリアに接近していることを考慮すると、この損失は重大であった。ディオニュシオスは封鎖しつつ、周囲の略奪を継続した。 パノルムスに上陸したヒミルコは、直ちにはセゲスタに向かわなかった。まず幾らかのエリミ人とシカニ人と合流した後エリュクスを奪回し、さらにモティアに向かいこれを奪回した。ただし、モティアは再建せず、近郊にリルバイオンを建設した。ディオニュシオスもセゲスタの包囲を解いた。ヒミルコがセゲスタに進軍している間、ディオニュシオスは取り得る策を考慮していた。食料は減りつつあり、略奪のために周囲は敵対的だった。ギリシア軍はヒミルコ軍との戦闘を望んだが、ディオニュシオスには別の考えがあった。ディオニュシオスは会戦となった場合に十分な兵力があるか確信がなかった。ギリシア軍は小規模であり、数に勝るカルタゴ軍と相対しており、不利な状況でヒミルコと戦うことは望ましくなかった。ハリキアエがギリシア側を離れカルタゴ側に戻ると、ディオニュシオスはシュラクサイに撤退した。
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