紀元前3千年紀のエブラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:41 UTC 版)
「エブラ」は「白い岩」、すなわち町が建っている石灰岩の露頭を意味する。エブラは紀元前3000年から絶えず人の居住があると見られるが、国力は次第に増し、その絶頂を紀元前3千年紀後半、およそ紀元前2400年から紀元前2240年の間に迎えている。エブラの名は紀元前2300年ごろのアッカドの文書にも見られる。 エブラから見つかった粘土板のほとんどはこの時期のものであり、経済に関係するものが中心である。これら粘土板はエブラの住民の日常生活や、紀元前3千年紀半ばのシリア北部および中東の文化・経済・政治状況をよく伝えている。文章は国家の歳入に関するものが多いが、王の手紙、シュメール語・エブラ語辞書、学校の教科書、エブラと周辺他都市との間の条約などの外交文書もある。 エブラのもっとも強力だった王は紀元前2300年ごろのエブリウム(Ebrium)またはイブリウム(Ibrium)と呼ばれる人物で、周囲の諸都市を従え、アッシュールの王トゥディア(Tudia)との間で、エブラの管理していた貿易拠点をアッシュール商人にも使わせる条約を結んでいる。 この最盛期の5番目で最後の王がエブリウムの息子イッビ・スィピシュ(Ibbi-Sipish)で、エブラ最初の世襲君主であり、それまでの選挙王政(選挙で王を選びその任期は7年とする)というエブラの慣習を破るものだった。その専制政治は内乱につながり、最終的に衰退に至った可能性がある(またアッカドの帝王サルゴンやその孫ナラム・シンがエブラを征服していることから、彼らがエブラを破壊した可能性もある)。一方ではイッビ・スィピシュの治世は、王が何度も国外へ旅行をしていることからも、過度の繁栄の時期だったと考えられる。エブラとアレッポ双方の文書に、エブラが隣国アルミ(Armi、当時のアレッポの呼び名)と条約を結んだことが記されている。
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