紀元前396年-紀元前394年のシケリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:47 UTC 版)
「タウロメニオン包囲戦」の記事における「紀元前396年-紀元前394年のシケリア」の解説
タウロメニオンでシケル人の安全が確保されると、カルタゴ軍はカタナ(現在のカターニア)に向かった。ディオニュシオスもまた自軍をカタナに向けたが、弟のレプティネス率いる海軍の拙速な攻撃より、シュラクサイ海軍はカルタゴ海軍に大敗北を喫した(カタナ沖の海戦)。紀元前405年の平和条約でカルタゴの支配下となっていたシケリアのギリシア都市は、紀元前398年にディオニュシオスがモティアを攻撃するとカルタゴに反乱し、ディオニュシオス軍に加わっていた。海戦での敗戦の後、ギリシア人兵士達は陸戦でカルタゴ軍と決戦することを望んだが、ディオニュシオスはシュラクサイでの篭城戦を選んだ。このため、ギリシア兵は自身の都市に戻ってしまった。シケル人も一時はディオニュシオスに従っていたが、タウロメニオンの建設後はカルタゴ側につき、シュラクサイを囲むヒミルコに兵を提供した。 紀元前397年秋に、ヒミルコはシュラクサイの包囲を開始した。しかし翌年夏になるとカルタゴ軍にペストが蔓延し、多くの兵を失った。この機会を捉えたディオニュシオスはカルタゴ軍に夜襲をかけ撃破した。ヒミルコはディオニュシオスと秘密裏に交渉し、カルタゴ市民兵のみを率いて帰国した。取り残されたカルタゴ兵の内、シケル兵は脱出して故郷に戻り、イベリア兵はディオニュシオスの傭兵となったが、リビュア兵は奴隷とされた(第一次シュラクサイ包囲戦)。
※この「紀元前396年-紀元前394年のシケリア」の解説は、「タウロメニオン包囲戦」の解説の一部です。
「紀元前396年-紀元前394年のシケリア」を含む「タウロメニオン包囲戦」の記事については、「タウロメニオン包囲戦」の概要を参照ください。
- 紀元前396年-紀元前394年のシケリアのページへのリンク