ヘルマ
ヘルマ
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ヘルマ(ギリシア語:ἕρμα, herma, 複数形:hermai, ヘルマイ)は、石もしくはテラコッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱。柱の上にはヘルメースの胸像が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついている。古代ギリシアの神ヘルメースの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説には、ヘルメース神は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は、生殖力・運・街道と境界と関連した、ファルス(男根)の神であった。
ヘルマは街道と境界の境界線を示す目印として使われた。他にも、アテーナイでは、幸運を招くよう家の外に置かれた。この迷信は、たとえばブロンズの猪像「ポルチェリーノ)」、その他の類似のものに受け継がれた。猪の鼻とヘルマの陰茎(ペニス)が輝いているのは、幸運または多産を願って触られるからである。
ペロポネソス戦争の間の紀元前415年、アテーナイ艦隊がシラクサに向けて出帆しようとする前夜、アテーナイ中のすべてのヘルマが破壊された。これは恐ろしい不信心な行為で、多くの人々は遠征の成功を脅かすものだと考えた。シラクサか、もしくはアテーナイの戦争に反対する穏健派(女の平和のアリストパネスなど)による破壊活動だと信じられ、実際にアルキビアデスが事件の首謀者として訴えられた。アルキビアデスはそれを否認し、裁判を受けると申し出たが、アテーナイの人々はこれ以上の遠征の中断を望まなかった。しかし、アルキビアデスの政敵たちは、アルキビアデスが遠征でアテーナイを離れて不在の時に、ヘルマを破壊した罪ならびにエレウシスの秘儀を冒涜した罪の両方で、アルキビアデスに死刑を宣告した。
ギャラリー
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レキュトスの赤絵に描かれたヘルマ。紀元前475年–450年頃のもの。
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テラコッタ製のヘルマ、イスタンブール考古学博物館所蔵。
脚注
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参考文献
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関連項目
ヘルマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:25 UTC 版)
古代ギリシアにはヘルマもしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた。トゥーキューディデースの『戦史』によると、紀元前415年、ペロポネーソス戦争を戦っていたアテーナイのヘルマが一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件はアルキビアデースの一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースがラケダイモーン側に寝返る原因となった。アルキビアーデスがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。 ヘルマ(ヘルメース柱像)は、アッティカやエーゲ海のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある。ヘルマは日本でいう道祖神のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメース神は旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。
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