カルタゴによる破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 22:32 UTC 版)
詳細は「ヒメラの戦い (第二次シケリア戦争)」を参照 アテナイのシケリア遠征は失敗に終わったが、その数年後にヒメラの繁栄はカルタゴの侵攻により突然の終焉を迎えた。アテナイと同じように、カルタゴは近隣のセリヌスの脅威を受けていたセゲスタ(現在のセジェスタ)を救うために紀元前409年に大軍を派遣した。しかし、実際にはカルタゴはより大きな野望を持っていた。セリヌスを攻略・破壊した後、遠征軍の司令官であったハンニバル・マゴは直ちに軍をヒメラに向けた。ヒメラの防衛体制は不十分であった;城壁は強固ではなかったが、市民は死に物狂いで戦った。また、果敢な出撃によりカルタゴ軍に大きな被害を与えた。シュラクサイの将軍ディオクレス(en)が4,000の兵を率いてヒメラを守っていたが、カルタゴ海軍がシュラクサイを直接攻撃するとの噂が流れ、それに動揺したディオクレスはヒメラを放棄してシュラクサイに引き上げた。残された不幸なヒメラ市民は、単独でカルタゴ軍と戦うことになった。ついに防衛線は破れ、市は略奪された。多くの市民が殺され、捕虜となった市民の内少なくとも3,000が、紀元前480年の戦いで戦死したハミルカル(ハンニバル・マゴの祖父)の犠牲として殺された。ヒメラは建物も含めて完全に破壊され、神殿とて例外ではなかった。 ディオドロスによると、ヒメラは破壊された後で再建されることはなく、彼の時代(紀元前1世紀中頃~後半)まで無人のままであった。他方紀元前405年のカルタゴとシュラクサイのディオニュシオス1世が講和条約では、ヒメラ、セリヌスおよびアクラガス(現在のアグリジェント)の難民は、カルタゴの従属都市となり防御施設を再建しないという条件で、自身の街に戻ることが許されており、ディオドロスの記述と矛盾する。紀元前397年にディオニュシオスカルタゴとの戦争を再開すると、ヒメラ市民これを支持したとの記載があるために、ヒメラを脱出していた市民の多くがヒメラに戻ったように思われる。但し、翌年にはヒメラはカルタゴ側に戻っている。この矛盾に関してはキケロが説明している。ヒメラの破壊後、生き残った市民は、ヒメラの領域内にあり旧市街から遠く離れていないテルマエに落ち着いた。ディオロドロスはキケロとは若干異なった説を唱えており、テルマエは戦争終結前の紀元前407年、カルタゴによって建設されたという。双方の記述とも、実質的には正しいと思われる。カルタゴは旧ヒメラが再占有されるのを防ぐためにテルマエを建設し、戦後ヒメラ市民はテルマエに定住することになったが、その際にヒメラの名前を引き継いだ。ずっと後のことになるが、ヒメラとテルマエは同一の都市とみなされるようになっていた。スキピオ・アエミリアヌスがカルタゴを占領・破壊した後、アクラガス(スキピオ時代にはアグリゲントゥム)およびゲラ(現在のジェーラ)にそれぞれの都市から持ち去られていた彫像を戻しており、またヒメラから持ち去られた彫像をテルマエに戻している。したがって、後世においてもヒメラ人が現存の人々のように話されたり、ヒメラ自身が存在しているかのように扱われることに驚く必要はなく、テルマエのことをヒメラと呼んでいるだけである。紀元前314年に結ばれたアガトクレスとカルタゴの講和条約でも、ヘラクレア(現在のカットーリカ・エラクレーア)、セリヌスおよびヒメラは以前と同じようにカルタゴに従属すると規定されていた。1世紀半ばに書かれたポンポニウス・メラ(en)と大プリニウスの著作にヒメラが現れるのはさらに奇妙に思えるが、キケロやストラボン、さらにディオドロスは、ヒメラは数世紀前に滅んだと明確に述べている。
※この「カルタゴによる破壊」の解説は、「ヒメラ」の解説の一部です。
「カルタゴによる破壊」を含む「ヒメラ」の記事については、「ヒメラ」の概要を参照ください。
- カルタゴによる破壊のページへのリンク