第一次ヒメラの戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 22:32 UTC 版)
この勝利により、テロンのヒメラに対する統治権は、アクラガスと同様に疑いの余地がないものとなった。ただテロンはアクラガスに集中していたようで、ヒメラの統治は息子のトラシダイオスに任せた。しかしこの若者は、暴力的な圧制のために直ぐに民心を失ってしまった。ヒメラの市民はそのときテロンへの敵意のために、シュラクサイの僭主ヒエロン1世に助けを求めたが、その期待は裏切られヒエロンはテロンにこの計画を告げた。テロンはヒメラ市民に報復し、不平市民の多くを殺害し、また多くを追放した。その後、この圧制のためにヒメラの人口が大きく減少すると、様々の地域から多くの市民を移住させて、街の繁栄を取り戻そうとした。移住者の多くはドーリア人であったため、従来の住人であるイオニア人と交じり合って暮らして行くこととなったが、この時点でヒメラはドーリア人の都市となった。ヒメラはシケリアの他のドーリア人都市の制度と政策を受け入れた。この大規模な移住は紀元前476年に行われたと推定され、紀元前472年にテロンが死去するまでその支配下にあった。テロンの死後トラシダイオスが権力を引き継いだが、シュラクサイのヒエロンに戦争を仕掛けて敗北し、アクラガスからもヒメラからも追放された。紀元前466年にヒメラはシュラクサイを支援する兵士を送っていることから、この時期には既にトラシダイオスのくびきから開放されていたことが分かっている。その後紀元前461年頃にはヒメラを追放されていた市民も戻ることが許され、新市民と共に騒乱なく生活した。ディオドロスによると、この時期からしばらくの間、市民間の紛争もなく幸運であったと述べており 、他のシケリアの都市と同様に半世紀の間繁栄を維持することができた。 ヒメラの再和解(紀元前461年頃)からカルタゴによる破壊(紀元前408年)までの期間は、一般的に平和で繁栄した時代と言われており、この間に分かっている唯一の出来事は、紀元前415年に実施されたアテナイのシケリア遠征に関するものである。ヒメラはシュラクサイへの支援を最初に表明した都市の一つであった。このため、アテナイ軍の司令官であるニキアス(en)が艦隊を率いてヒメラの眼前に現れたとき、ヒメラはその入港を拒否した。それからしばらくの後、シュラクサイを支援するためにスパルタのギュリッポスが上陸したのはヒメラであった。ギュリッポスはヒメラから内陸部を通ってシュラクサイに進軍したが、多くのヒメラ市民も従軍した。
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