第一次ヒムヤル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 04:39 UTC 版)
紀元前2世紀、アデン東部を支配するカタバーン王国から離脱した諸部族が、イエメン南部の高原地帯にヒムヤル部族連合を形成する。ギリシャ世界においてヒムヤルの諸部族はホメリタエ (Homeritae) と呼ばれ、博物学者の大プリニウスは「最も多数の種族」と言及した。ヒムヤル族はサバア人、ミナエア(ミネア、ミナー)人(英語版)の文化と商業を継承し、同じ言語を話していたと考えられている。アラブの系譜学において、ヒムヤル族の祖であるヒムヤルは、南アラブの祖であるカフターンの玄孫に位置づけられている。 インド洋と地中海を結ぶ交易ルートが「香料の道」と呼ばれる陸路から紅海を経由する海路に移ると、紅海沿岸の港を支配するヒムヤル族はその恩恵を受け、紀元前1世紀から1世紀にかけて急速に発展する。紀元前25年、ローマの将軍アエリウス・ガルスの率いる遠征軍が富を求めて南アラビアに侵入する事件が起きる。遠征軍は酷暑に屈して撤退し、サバの首都マアリブに到達することはできなかった。 1世紀にヒムヤルはサバアと連合王国を形成し、連合国家はサバ・ヒムヤル王国と称された。その後両国は再び敵対し、2世紀末にヒムヤルの首都がザファールに移される。ザファールが首都とされた理由について、マァリブを経由する乳香交易路の衰退、インド洋交易に適したザファールの立地が一因であったと推測されている。ザファールを統治したヒムヤル王カリバ・イル・ワタル(カリバエル、チャリバエール)は、ローマ帝国と交流を持ったと伝えられている。 2世紀末、ローマ帝国の衰退に乗じて勢力を拡大しつつあるエチオピアのアクスム王国が、紅海を越えて南アラビアに進出する。アクスム王自らがアラビア半島に遠征し、従来ヒムヤルとサバの領有下にあったアラビア半島南西部の沿岸地域、高原地帯の一部がアクスムの支配下に置かれた。アラビアに進出したアクスムは当初サバ、ハドラマウトと同盟してヒムヤルに敵対していたが、ヒムヤルが内紛で弱体化し、サバの勢力が強まると、ヒムヤルと同盟してサバに対抗した。3世紀末にヒムヤル王シャンマル・ユハルイシュはサバ、ハドラマウトを併合して南アラビアの統一に成功する。だが、ヒムヤルの統一事業の達成にはアクスムの支援が大きな役割を果たしていたとする見解も存在する。
※この「第一次ヒムヤル王国」の解説は、「ヒムヤル王国」の解説の一部です。
「第一次ヒムヤル王国」を含む「ヒムヤル王国」の記事については、「ヒムヤル王国」の概要を参照ください。
- 第一次ヒムヤル王国のページへのリンク