第一次ピール内閣
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「ロバート・ピール」の記事における「第一次ピール内閣」の解説
メルバーン子爵を罷免したウィリアム4世は、保守党政権に戻すべく、ウェリントン公爵に組閣の大命を与えたが、もう組閣しないと決めていた公爵はピールに大命を与えるべきことを奏上した。ただこの時ピールはイタリア訪問中でイギリスを不在にしていたため、ピールが帰国するまでの暫定としてウェリントン公爵が首相に就任した。 12月に帰国したピールはただちにウェリントン公爵から首相職を譲り受けた(第1次ピール内閣)。以降ウェリントン公爵はピールが権威ある保守党党首になれるよう国王ウィリアム4世や保守党大物議員との関係を取り持ってくれるようになった。 首相となったピールは12月18日に自分の選挙区タムワースの有権者に対して公約として書簡「タムワース・マニフェスト(“The Tamworth Manifesto”)」を発した。これは選挙公約としての「マニフェスト」の先駆けであった。第一次選挙法改正という現実に合わせて保守党の新たな方針を示していた。 ウィリアム4世は保守党政権を安定させるため解散総選挙を行うことを希望していた。ピールもそれを承諾し、12月30日に議会は解散された。1835年初頭の総選挙(英語版)の結果、保守党が204議席、ダービー派が86議席、ホイッグ党が218議席、急進派が90議席、オコンネル派が60議席をそれぞれ獲得した。 ピールはダービー派の支持を取り付けて政権を維持したが、ホイッグ党党首メルバーン子爵が野党連携を強化した結果、1835年4月にはホイッグ党が提出したアイルランド国教会の教会税の転用法案の採決で敗北し、内閣総辞職を余儀なくされた。
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