第一次バルカン戦争の開戦と劣勢
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「大宰相府襲撃事件」の記事における「第一次バルカン戦争の開戦と劣勢」の解説
「第一次バルカン戦争」を参照。 オスマン帝国中央での政治的混乱はまたしてもアルバニアでの反乱を招き、1912年1月からアルバニア反乱が再発する。アフメト・ムフタル・パシャは1910年時のアルバニア反乱への対応とは異なり、アルバニアに融和策で臨んだが、これは国内外で新政権の弱腰として受け取られた。 そしてアルバニア問題へのオスマン政府の弱腰の対応と伊土戦争でのイタリア海軍の優勢を見たモンテネグロが1912年10月8日にオスマン帝国領のバルカン(ルーメリ)のキリスト教徒の保護を名目にオスマン帝国に宣戦布告すると、モンテネグロと同盟関係にあったセルビア、ギリシャ、ブルガリアがこれに続き、第一次バルカン戦争が開戦した。 開戦前は国力でバルカン諸国に勝ると考えられていたオスマン帝国であったが、度重なる政争による尉官佐官級将校の不足や軍事作戦の引継ぎ不備、命令系統の混乱、徴兵令や動員の遅延、兵士の訓練不足や装備不足で軍は弱体化しており、更に開戦前に首都近辺で起こった大地震はオスマン帝国の国力を大きく損なっていた。その結果、オスマン軍はブルガリアとの東部戦線、セルビア・ギリシャ・モンテネグロとの西部戦線の両戦線で開戦時から敗北を重ね、開戦からわずか一か月の11月8日にはルーメリ最大の都市サロニカが無抵抗で降伏する。その後もオスマン軍は敗退を続け、12月に入るまでにはマケドニア地方の大都市であるマナストゥルが陥落し、抵抗を続ける都市はわずかにエディルネとヤンヤ、イシュコドラを残すのみとなってしまう。事態を重く見たオスマン帝国は軍事的な方法での解決を不可能と判断し、外交での解決を図るためにイギリスと強いコネクションを持ち、過去に大宰相を務めた経験のある老政治家キャーミル・パシャを大宰相に起用し、12月3日の停戦を実現した。
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