第一次バターン半島攻略戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:51 UTC 版)
「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「第一次バターン半島攻略戦」の解説
米比軍はマニラを捨ててバターン半島へ至る道路を死守し、周辺にあった全部隊の半島への撤退を成功させていた。日本軍でもバターン半島へ向けて多数の米比軍が移動しつつあることは確認していたが、所詮は敗残兵で、兵力は40,000ないし45,000程度であろうと見込んでいた。蘭印作戦の日程が繰り上げとなったこともあり、バターン半島を軽視すべきでないという異論もあったものの、南方軍は第48師団と第5飛行集団の大部分に蘭印・ビルマ方面への転進を命じた。バターン半島の攻略には、歩兵第9連隊と、二線級部隊の第65旅団とを差し向ければ十分というのが南方軍と大本営の判断であった。 第65旅団は第二次輸送部隊として1月1日にリンガエン湾に到着していた。9日、第65旅団(歩兵第9連隊を臨時に配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍防衛線へ攻撃を開始した。だが米比軍の陣地は数線にわたって巧妙に配置されており、アメリカ軍フィリピン師団が有効な反撃を加え日本軍には死傷者が続出した。バターン半島は米比軍がオレンジ計画に基づいて構築していた堅固な防衛線であり、ナチブ山周辺の第一線の後方にも、バガックからピラーに至る第二線、マリベレス山周辺の第三線が控えていたのである。 16日以降、日本軍は半島西海岸に第16師団木村支隊(歩兵第20連隊基幹、兵力5,000)を投入したが、やはり米比軍の頑強な抵抗に遭う。22日夜には恒広大隊を舟艇機動させ米比軍の背後に上陸させる奇襲作戦を試みたが、逆に米比軍に包囲され全滅させられてしまった。第65旅団は粘り強く攻撃を続け、26日までに米比軍を第二線へ後退させたが、第二線は最も強化された防衛線であった。ここに攻めかかった第65旅団は兵力の3分の2を失い、幹部も多数が戦死した。2月8日に本間中将は攻撃停止を指示し、日本軍の攻勢は中断に至った。
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