第一次ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「第一次ノモンハン事件」の解説
航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI-16であった。当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。ノモンハン事件勃発当初、サンベース基地及びタムスク基地に展開していたソ連空軍の各部隊の搭乗員は飛行時間の不足から練度が低く、特に戦闘機搭乗員の練度不足は著しかった。第70戦闘機連隊所属の搭乗員は平均飛行時間60~120時間程度で飛行経験に乏しかったうえ、空中戦に必要不可欠であった各機の連携に基づく戦技も習得していなかった。さらに保有航空機の充足率と稼働率の低さも深刻な問題でノモンハン事件勃発時点でのソ連空軍の航空機充足率は、第150混成爆撃機連隊で約74%程度、第70戦闘機連隊で約60%程度であり、爆撃機、戦闘機ともに大幅に不足していた。また第70戦闘機連隊における航空機の稼働率は約35%であった。こうした状況からソ連空軍は戦闘に耐えられる状態ではなかった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、日本軍の圧倒的な勝利となった。日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、中でもトップ・エースの篠原弘道は3カ月で58機撃墜を記録した。ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇、岩橋譲三、坂井菴、西原五郎、伊那明などがいる。優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり事態の拡大を招来することに危惧し、自発的な計画の中止を打電。6月25日には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定。6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った『田中上奏文』の実現として認識された。
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