ソ連の航空機運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
ジューコフは第一次ノモンハン事件における航空戦での惨敗を見て「我が航空隊は日本軍航空隊によって撃滅された。大きな損失を前にして空軍本部は判断停止、呆然状態に陥った」とモスクワに報告すると、スペイン内戦で活躍した、熟練パイロット22人を含む48人の専門チームを呼び寄せ以下の5つの対応策を練った。 5月29日~6月16日まで戦闘行動を停止する その間に戦闘と訓練が不足と判定されたパイロットたちの再訓練を実施する 監視・警報・連絡のネットワーク作りと通信体制の改善 飛行場の増設 機動力に優れた97戦に対する技法の考案 中でもソ連軍は97戦対策に力を入れ運用法を大胆に改変した。改善点は以下の通りである。 単機格闘を回避し、I16の頑丈な設計をいかした高速一撃離脱戦法に徹する 空戦は旋回性能に優れたI153と有速のI16を組み合わせる I16の改良型を投入する(火力を2倍にした10型や10倍にした17型など。格闘戦より地上撃破を重視) パイロットと燃料タンクを守るため鋼板を搭載 低速のTB3重爆は夜間爆撃に徹し、SB中爆は97戦が苦手な高高度からの爆撃に徹する 97戦の餌食になっていたR5は偵察兼観測機に、I15は爆弾を外して襲撃機に転換 加えて爆撃機・襲撃機がそれらを護衛する戦闘機集団や高射砲部隊と連携しつつ、味方地上部隊の上空を長期に渡って制圧する「空のベルトウエイ」と呼ばれる戦術を生み出した。この戦術は8月攻勢で大きな戦果を上げ日本側の戦闘機隊が出撃しても一時的な制空に留まり、ジューコフは「第二段階においては我が戦闘機隊は制空権を獲得し、終結までそれを維持した」と成果を強調した。 これらの改善と数的優勢によって、空の戦いの様相は変化していった。 7月中の空戦においてはソ連軍の損失89機対して日本軍47機と日本軍優勢、ソ連軍の大攻勢があった8月以降においてもソ連軍損失39機に対して日本軍損失39機とほぼ互角の戦いで空戦ではソ連軍が圧倒したとは言えない状況であったが、数的劣勢の日本側にとって航空消耗戦はパイロットの大きな負担となり、少数精鋭を自負していた戦闘機隊隊長、中隊長クラスの損耗が増えていった。また格闘戦の戦果とは対照的に出撃回数ではソ連空軍が日本側を圧倒し、継続して航空優勢を握ることになった。 8月20日にソ連地上軍の大攻勢が始まるとソ連空軍は満を持した一大航空作戦を展開し、初日だけで爆撃機350ソーティー、戦闘機744ソーティーと過去最高水準の出撃数を叩きだした。対する日本側の出撃数は309ソーティーとソ連側の三分の一弱に過ぎなかった。翌日の出撃数は1138ソーティに達し、ソ連空軍はハルハ河上空の航空優勢を獲得、地上支援に専念していくことになる。 ソ連空軍は戦闘機やSB爆撃機まで低空爆撃に投入し、徹底して地上支援に集中した。8月攻勢の10日間でソ連軍爆撃機の出撃回数は日本軍爆撃機の10倍近い8530ソーティーに達した。 8月攻勢全体の出撃では制空のための出撃が約75%と最も多かったが、地上部隊支援のための出撃も約20%を記録しており、ソ連軍は保有する航空戦力の約1/5を地上部隊支援に投入した。これに加えて、制空のために出撃した戦闘機も機銃掃射で地上部隊を支援したことを考慮すると、ソ連軍地上部隊は、記録以上に航空支援を受けていたことになる。この頃の航空機は第二次世界大戦時とは異なり破壊力が小さく、結果的に日ソ両軍ともに航空戦力が戦況に与えた影響は限定的であったとの意見もあるが、ソ連の猛攻に直面した第6軍司令部は「現在頼むところは飛行隊だけである」と飛行集団司令部に悲鳴を上げており、8月攻勢においてソ連空軍は航空優勢を獲得したのみならず対地攻撃の実施によって「ソ連版電撃戦」理論で示された地上部隊に対する砲兵部隊と緊密に連携した火力支援の一翼を担っていた。
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