ソ連の生物兵器の開発の歴史
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「スヴェルドロフスク炭疽菌漏出事故」の記事における「ソ連の生物兵器の開発の歴史」の解説
ソ連の生物兵器開発は1928年の革命軍事委員会の命令により開始された。研究はレニングラードの陸軍学校と強制収容所のあるソロヴェツキー島の研究施設で行われ、合同国家保安部(OGPU)の管理下で進められた。その結果1930年代後半にはチフス、野兎病、Q熱といった初歩的な生物兵器の実用化に成功していたがより高度な技術の必要な炭疽菌の開発には成功していなかった。 1945年8月9日にソ連が対日参戦し、満州に侵攻するとソ連軍は当地にあった日本軍の生物兵器の資料や設備を押収し、また逃げ遅れた関係者を捕えた。日本軍は当時のソ連に比べて大規模かつシステマティックな生物兵器製造技術を持っており、また炭疽菌やペストなどの生物兵器化に成功するなど高い技術力を有していた。これらの資料や設備を解析し技術移転をしたことでそれまで実験段階レベルだったソ連の生物兵器開発は大きな飛躍を遂げた。こうして1946年から1947年にかけ、ウラル地方の都市スヴェルドロフスク郊外において当時のソ連では最大規模となる生物兵器開発・製造施設である第19施設が設立され、その設備は日本軍から押収した図面をもとにして建造された。技術移転後、日本軍の生物兵器開発関係者の捕虜は用済みとなったためソ連は1949年にハバロフスク裁判を取り行った上で矯正労働収容所に送り込んだ。 1975年にソ連は生物兵器禁止条約を締結したが生物兵器開発は極秘裏に進められ、1980年代までにソ連は炭疽菌などの生物兵器をICBM(大陸間弾道ミサイル)の弾頭や爆撃機用のクラスター爆弾やスプレータンクに充填したものを実戦配備しており、その供給用に多数の製造設備が稼働していた。1950年代の時点でアメリカはイスラエル経由でスヴェルドロフスクに大規模な生物兵器工場が建設された情報を得ていた。1960年5月1日にはスヴェルドロフスク周辺でアメリカの高高度偵察機U-2が撃墜される事件(U-2撃墜事件)が発生したが、この偵察機は第19施設の偵察を目的としていた。
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