ソ連の海外拠点に対する強制捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:30 UTC 版)
「ミハイル・ボロディン」の記事における「ソ連の海外拠点に対する強制捜査」の解説
1927年4月6日、南京事件によって高まった列強のソ連に対する懸念から張作霖による北京のソ連大使館捜索が行われ、ロシア人・中国人80名以上が検挙され、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が入り込み、それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。4月12日には蔣介石が上海クーデターを起し、共産主義者たちを追放し、彼を逮捕しようとした。 5月12日、ソ連の貿易代表部であったアルコスのロンドン事務所が捜索を受け(アルコス事件)、その際に重要な文書としてモスクワのソ連外務省から北京の工作員に向けて打電された公式電報の写しが見つかった。そこには「北京におけるソ連代表が任命されるまで、同志ボロディンがモスクワから直接送られてきた命令を実行すること」と書かれていた。ボールドウィン政権はソ連のスパイ活動及び破壊活動を非難し、5月26日には英国とソ連は国交を断絶した。1927年7月、汪兆銘率いる武漢国民政府も、共産党を受け入れていた政策を破棄し、共産党の言論取り締まりを決定し、ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。ボロディンはその年にソビエト連邦に帰国した。
※この「ソ連の海外拠点に対する強制捜査」の解説は、「ミハイル・ボロディン」の解説の一部です。
「ソ連の海外拠点に対する強制捜査」を含む「ミハイル・ボロディン」の記事については、「ミハイル・ボロディン」の概要を参照ください。
- ソ連の海外拠点に対する強制捜査のページへのリンク