ソ連の諜報員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/19 09:00 UTC 版)
「ナジェージダ・プレヴィツカヤ」の記事における「ソ連の諜報員」の解説
プレヴィツカヤとスコブリンは1930年に、スターリン体制下の秘密警察である国家政治保安部(内務人民委員部やソ連国家保安委員会の前身)に採用された。プレヴィツカヤは、スコブリンに誘惑されるまでには進んでボリシェヴィキに加わっており、ソ連の手先として働くことについてほとんど良心の呵責というものを覚えなかった。どちらにせよプレヴィツカヤとスコブリンは、ソ連情報部の熟練した諜報員として働いたのである。 さしあたって2人は西欧における任務に起用された。2人は成功した結果、周期的にソ連に潜入するようになり、モスクワで「グロゾフスキー夫妻」を演じて、「スターリンの敵」を狩り出そうとする内務人民委員部のために実入りの良い対敵諜報活動に取り組んだ。「グロゾフスキー夫人」ことプレヴィツカヤは、さまざまに身をやつしてソ連中央執行部や外国貿易人民委員に勤め、非常にお洒落な着こなしのタイピストや事務官としてソ連の政府機関に出入りした。しかもマニキュアや宝飾品、上質の皮革製品でばっちり着飾っていた。それでいて、出先機関の人員の活動や状態については忠実に報告書を作成した。 プレヴィツカヤとスコブリンは、1937年の「ミレル大将誘拐事件」にも連坐した。ミレル大将はパリで拉致されて薬で眠らされ、モスクワに送還されてから、19ヵ月にわたる拷問の末、1938年に秘密裁判ののち処刑された。スコブリンは誘拐事件を起こすとソ連の援助でバルセロナに逃げ込み、フランスはスコブリンの身柄引き渡しを要求したものの、スペイン人民政府はソ連の援助を受けていた手前これを拒否している。プレヴィツカヤは、常にソ連大使館の公用車(キャデラック)に乗り込み、秘密警察の運転手をお抱えにして国内で活動を続けていたものの、いつもフランス警察のシトローエンに追われていた。パリ郊外では高速カーチェイスで何とか警察の追跡を撒けたものの、スペイン国境を超える直前に逮捕されてしまう。 誘拐事件を問われた際にはプレヴィツカヤは、無関係であるふりをしてソ連のスパイとしての活動を否認するも、証拠が自宅のアパルトマンで見つかり、有罪の決め手となってしまう。1938年に禁錮20年の刑期が宣告され、レンヌ刑務所に収監されたが、1940年秋に死去した。死因は心臓病とされたものの不審な点も多く、今日でも疑問や論争の的となっている。アメリカに亡命したソ連の元スパイ、アレクサンドル・オルロフによると、その後スコブリンはプレヴィツカヤに日付のない「恋文」を書き送り、秘密警察の手先としての自分の活動範囲について自白することのないように請願したため、服役中のプレヴィツカヤは沈黙を守ったと言われている。 プレヴィツカヤの物語は、ウラジーミル・ナボコフによって小説化され、2004年にはエリック・ロメール監督により『三重スパイ』として映画化された。
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