ソ連の軍事勢力圏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
東側の国々はしばしば軍事力を通じて、ソ連の勢力圏に留め置かれた。 ハンガリーは共産主義政権を倒し(ハンガリー動乱)、より民主的でモスクワから独立した国家運営の道を模索しようとしたが、1956年にソ連軍に侵攻された。 ポーランドの指導部はヴワディスワフ・ゴムウカを第一書記に選出しようとしたが、ゴムウカの選出をやめさせるようにとのソ連軍による最後通告を受けた。 チェコスロヴァキアは1968年のプラハの春の自由化の後、ソ連軍に侵攻された(チェコ事件)。チェコスロヴァキア侵攻など1960年代後半以降の東欧侵攻に関するソ連の外交政策は、ブレジネフ・ドクトリンという公式な政策として成文化されている。 しかし1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフの率いるソ連は次第に東側諸国への内政干渉を行わないようになった。ブレジネフ・ドクトリンの廃止とシナトラ・ドクトリンとして知られる新思考外交は、東欧に劇的な影響を及ぼした。東側諸国の共産主義政権は1989年の夏から冬までの間に次々と崩壊し(東欧革命)、東側は終焉を迎えた。 東欧革命以前でも、ワルシャワ条約機構の全ての国が常に集団で行動したわけではない。1968年、ニコラエ・チャウシェスクはソ連によるチェコスロヴァキア侵攻を非難し、ルーマニアは侵攻に加わらなかった。それ以降ルーマニアはソ連とは一線を画した独自の道を歩むことになる
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