ソ連への技術供与交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 02:33 UTC 版)
「中国の核実験」の記事における「ソ連への技術供与交渉」の解説
毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下に魅了され、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けたといわれる。財政部長薄一波によれば毛沢東は1950年代前半を通じて、すべての会議において中国による原爆所有について言及していた。しかし毛沢東は外交的配慮から、対外的には原爆への渇望を隠蔽し、「原爆など不要、人民に頼るべき」と発言しており、1946年には「張り子の虎」発言を行っている。しかしスターリンは中国への技術供与を了承しなかった。 1949年8月29日、ソ連最初の核実験RDS-1がセミパラチンスク核実験場で行われた。実験を指揮したのは核物理学者のイーゴリ・クルチャトフだった。この成功によりアメリカによる「核兵器独占」状態は終了する。 1950年から開始されていた朝鮮戦争中の1953年2月2日にアメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領が一般教書演説において、中国への原爆投下の可能性について言及し、中国に対して核使用による脅迫を行ったため、毛沢東はスターリンに対して原子爆弾の技術提供を要求する口実ができた。毛沢東は中国の核物理学者銭三強をモスクワへ派遣するが、ソ連側はこれを拒絶する。しかし銭三強は以降もソ連の核研究施設に入れてもらうよう交渉を三か月も続けた。1950年の中ソ友好同盟相互援助条約には核兵器に関する協定は含まれていなかった。 スターリンは中国に核兵器を持たせたくなかったことも手伝って、朝鮮戦争の終結を決断したといわれる。スターリンは終結予定日は1953年2月28日とすることをソ連指導部に伝えた。しかし3月5日、スターリンは心臓発作で死去する。なおスターリンは毛沢東を日本のスパイと疑っていたともいわれる。 スターリン死後、ソ連指導部は西側諸国との緊張緩和を目指し、中国へも停戦に協力するよう説得を始めた。しかし毛沢東は原爆を渇望するあまり朝鮮戦争の継続に固執した。結局、米軍が細菌兵器を使用したというプロパガンダを巡ってソ連政府は中国政府を威嚇して、毛沢東は5月にようやく停戦に応じた。毛沢東が朝鮮戦争の終結に同意したため、ソ連新クレムリンは中国に大型工業計画を売却する。これを受けて6月15日、毛沢東は軍事大国を目指した第一次五か年計画を提起する。 1953年8月12日にソ連は水爆装置実験RDS-6を行う。核融合は失敗している。 翌1954年7月に中国は台湾侵攻を開始する(台湾海峡危機)が、これは再びアメリカとの対立を作ることで、ソ連に原爆製造技術を要請するためであった。9月3日には金門島に砲撃を開始する。10月1日にソ連代表ニキータ・フルシチョフが訪中するが、これはスターリン時代には考えられないことだった。フルシチョフは15企業の売却と5億2000万リーブルの借款を約束した。原爆については毛沢東が強く交渉し、ソ連側は中国の原子炉建設援助を不承不承承諾した。
※この「ソ連への技術供与交渉」の解説は、「中国の核実験」の解説の一部です。
「ソ連への技術供与交渉」を含む「中国の核実験」の記事については、「中国の核実験」の概要を参照ください。
- ソ連への技術供与交渉のページへのリンク