ソ連への留学と帰国とは? わかりやすく解説

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ソ連への留学と帰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:35 UTC 版)

鄧小平」の記事における「ソ連への留学と帰国」の解説

1926年1月にはソビエト連邦モスクワ渡り東方勤労者共産大学モスクワ中山大学共産主義を学ぶ。モスクワ中山大学では当時同じ共青団所属していた蔣介石長男で後の中華民国総統である蔣経国知り合って友人となった1927年帰国してゲリラ活動開始した。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的無計画な李立三路線振り回される1931年8月蜂起したものの根拠地失った部隊と共に毛沢東率い江西ソヴィエト合流し瑞金書記となる。しかし、コミンテルン指令忠実なソ連留学組が多数派占め党指導部は、農村でのゲリラ戦重視する毛沢東路線に従う鄧小平失脚させる1935年1月には周恩来助力中央秘書長復帰し長征参加して八路軍一二九師政治委員となる。この後華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年6月以降国民党戦った国共内戦では、淮海戦役揚子江渡河作戦第2野戦軍政治委員などを務め大きな戦果収める1949年10月中華人民共和国成立後西南部の解放戦を指導し解放地域復興努める。 1952年8月毛沢東によって政務院副総理任命され1953年9月財政部長(大臣)を兼任する1954年9月政務院国務院改組されると、引き続き副総理務める。1955年4月第7期党中央委員会第5回全体会議第7期5中全会)において中央政治委員選出された。さらに1956年9月第8期1中全会党中央政治局常務委員選出され党内序列第6位となり、中央書記総書記として党の日常業務統括することとなる。 1957年6月始まった反右派闘争では総書記としてその指揮を取る。約55万人迫害を受け、毛沢東の死後にその99パーセント以上が冤罪であった認められ事件であった。しかし鄧小平毛沢東指揮した大躍進政策失敗以降次第に彼との対立深めていく。大躍進政策失敗責任取って毛沢東政務第一線退いた後、総書記鄧小平国家主席劉少奇と共に経済立て直し従事した。この時期には部分的に農家自主的な生産認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果挙げていったが、毛沢東はこれを「革命否定」と捉えたその結果1966年5月文化大革命勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第2の走資派」と批判され権力を失うことになる。 1968年10月に全役職追われ、さらに翌年江西省南昌追放された。「走資派トップ」とされた劉少奇文化大革命で死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東意向で完全な抹殺にまでは至らず党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場農場での労働従事するが、与えられ住居には暖房設備無く強制労働過酷なもので、鄧は何度倒れた砂糖水飲んで凌ぐことしか許されなかった。 1973年3月には周恩来復活工作功を奏し鄧小平は党の活動国務院副総理職務復活し病身周恩来補佐して経済立て直し着手する同年8月第10回党大会中央委員返り咲き12月には毛沢東指示によって党中央委員会副主席中央軍事委員会副主席中国人民解放軍総参謀長となり、政治局統括した。 1974年4月国際連合資源総会中国代表団の団長として出席して演説したその際訪れたニューヨーク威容驚嘆し国家発展のためには製鉄業拡充急務考え新日本製鐵新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月国務院常務副総理第一副首相)に昇格し周恩来病気重くなると党と政府日常業務主宰するうになる着々と失脚以前地位取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日周恩来没すると、鄧小平運命暗転する前年ら行われていた「教育革命キャンペーン」は、悔い改めない走資派暗に鄧小平を示す)を狙ったものだと党機関紙人民日報伝えると、北京大学始めとした各大学壁新聞鄧小平批判溢れようになった。さらに清明節4月4日から5日未明にかけて、江青四人組率い武装警察民兵が、天安門広場行われていた周恩来追悼デモ弾圧第一次天安門事件)するとデモ反革命動乱認定され鄧小平はこのデモ首謀者とされて再び失脚し全ての職務剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月毛沢東死去すると、後継者華国鋒支持して職務復帰希望し四人組逮捕後の1977年7月3度目復活を果たす。 1954年ダライ・ラマ14世(右)とパンチェン・ラマ10世中央)を迎え鄧小平 1963年3月周恩来(右)と談笑する鄧小平(左) 1958年12月武漢鋼鉄視察する鄧小平 1965年4月中国訪問したチェ・ゲバラ迎え鄧小平 1975年12月中国訪問したアメリカジェラルド・フォード大統領会談する鄧小平

※この「ソ連への留学と帰国」の解説は、「鄧小平」の解説の一部です。
「ソ連への留学と帰国」を含む「鄧小平」の記事については、「鄧小平」の概要を参照ください。

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