ソ連への留学と帰国
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1926年1月にはソビエト連邦のモスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。モスクワ中山大学では当時同じ共青団に所属していた蔣介石の長男で後の中華民国総統である蔣経国と知り合って友人となった。 1927年に帰国してゲリラ活動を開始した。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年8月に蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかし、コミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。 1935年1月には周恩来の助力で中央秘書長に復帰し、長征に参加して八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年6月以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などを務め、大きな戦果を収める。1949年10月の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。 1952年8月、毛沢東によって政務院副総理に任命され、1953年9月に財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月の第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出された。さらに1956年9月の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。 1957年6月に始まった反右派闘争では総書記としてその指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99パーセント以上が冤罪であったと認められた事件であった。しかし鄧小平は毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇と共に経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果1966年5月の文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。 1968年10月に全役職を追われ、さらに翌年に江西省の南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備も無く、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。 1973年3月には周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活し、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括した。 1974年4月、国際連合の資源総会に中国代表団の団長として出席して演説した。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると党と政府の日常業務を主宰するようになる。 着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。前年から行われていた「教育革命キャンペーン」は、悔い改めない走資派(暗に鄧小平を示す)を狙ったものだと党機関紙や人民日報が伝えると、北京大学を始めとした各大学の壁新聞は鄧小平批判で溢れるようになった。さらに清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧(第一次天安門事件)するとデモは反革命動乱と認定され、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚し、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後の1977年7月に3度目の復活を果たす。 1954年、ダライ・ラマ14世(右)とパンチェン・ラマ10世(中央)を迎える鄧小平 1963年3月に周恩来(右)と談笑する鄧小平(左) 1958年12月に武漢鋼鉄を視察する鄧小平 1965年4月に中国を訪問したチェ・ゲバラを迎える鄧小平 1975年12月に中国を訪問したアメリカのジェラルド・フォード大統領と会談する鄧小平
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