ソ連への引渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:49 UTC 版)
「ジュリオ・チェザーレ (戦艦)」の記事における「ソ連への引渡し」の解説
イタリアが降伏すると、ソビエト連邦はイタリア残存艦艇の三分の一を戦利艦として引き渡すよう、連合国に要求した。アメリカ合衆国やイギリスは要求に応じず、自軍の艦艇を貸与する。その一環としてイギリス海軍はリヴェンジ級戦艦のロイヤル・サブリン (HMS Royal Sovereign, 05) をソビエト連邦に貸与し、ソビエト海軍は同艦を「アルハンゲリスク」と改名して運用した。だが大戦終結後もソ連は「アルハンゲリスク」を返還しようとしなかった。 1947年(昭和22年)2月に締結されたイタリアと連合国との平和条約 (Treaty of Peace with Italy) で、「ジュリオ・チェザーレ」はソ連への賠償艦とされた。1948年(昭和23年)12月9日にアウグスタへ回航。同年12月15日に除籍。艦名は「Z11」となる。1949年(昭和24年)2月6日にアルバニアのブローレでソ連に引き渡され、「ノヴォロシースク(Новороссийск)」と改名された。なお「ノヴォローシスク」の編入から間もなく、「アルハンゲリスク」(旧ロイヤル・サブリン)はイギリスに返還された。 ソ連海軍時代の艦様の変化は以下の通りである。ソ連製のレーダーを搭載するために、塔型艦橋の背後に前部マストを新設してそこにアンテナを装備した。同時期に機関砲をソ連製の3.7cm機関砲に換装し、連装砲架で6基と、単装砲架で6基を甲板上に装備した。同時に射撃指揮装置もソ連製のものに更新された。艦内では主機関の修理が行われ、老朽化したディーゼル発電機はソ連製の物に交換された。この改造により130トンの重量増加となり、後部マストの高さを低めたが重心が上昇して復元性が悪化した。 1955年(昭和30年)10月29日、「ノヴォロシースク」はセヴァストーポリでの事故で転覆した。1時30分に「ノヴォロシースク」の1番砲塔右舷側の水中で大爆発が発生し、浸水により艦首は沈み、艦自体も右に傾斜した。いったんは傾斜は元に戻されたが、水没していた艦首で再び爆発が発生。停泊時に降ろした錨をそのままに艦尾から曳航しようとして、損傷した艦首部に無理な力をかけるという致命的なミスのため浸水が拡大。左への傾斜が増大し、「ノヴォロシースク」は転覆した。総員退艦が発せられなかったため多くが逃げ遅れ乗員608名に加え、他艦から派遣された者も44名が死亡した。 入港投錨時に錨鎖を引きずり機雷に触れたことが爆発の原因とされる。セヴァストーポリには第二次世界大戦中のドイツ軍の機雷が残っており、実際に事故後の調査でも付近で32個の機雷が発見されている。なお、過去に同艦はこの位置で十回以上停泊しているなど不可解な点が残っていることから、ロシア誌「スプートニク」の1993年3月号において「イタリア海軍の元士官を中心とするグループによって爆破された」とする推測記事が掲載されるなど、いろいろな憶測を呼んでいる。この事故で、海軍総司令官ニコライ・クズネツォフが責任を問われ、解任された。しかしこれはクズネツォフの責任ではなく、ある種の言い掛かりであった。 「ノヴォロシースク」は1956年(昭和31年)2月24日に除籍され、1957年(昭和32年)に浮揚解体された。
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