ソ連軍の越境攻撃
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6月17日になってソ連軍航空部隊の再訓練の目途がつくとジューコフは航空隊に出撃を許可し、6月18日に15機のソ連軍爆撃機が越境して温泉方面の地上部隊を爆撃し人馬多数が死傷、カンヂュル廟には30機のソ連軍爆撃機が来襲して燃料集積所を爆撃、500缶の燃料が焼失するという損害が生じた。さらに爆撃は後方のロンアルシャンにも及んだ。一方で日本軍航空隊は6月中旬には出撃命令が下り、戦闘機部隊は飛行第11、24戦隊に飛行第1戦隊が新たに加わり20日 - 26日の間に3個戦隊が、カンヂュル廟、採塩所の両飛行場に展開したが、参謀本部の不拡大の方針により出撃を自重していた。6月19日には陸上部隊も偵察行動を開始、20日からは満州国内のデブデン・スメ地区に戦車・装甲車十数輌とソ連軍狙撃兵・モンゴル軍騎兵の約200名が来襲、ソ連軍は日本軍の宿営地と集落を発見し、戦車砲で攻撃してきた。兵舎が砲撃により炎上し、集落内はパニックとなったが、この野営地の日本軍は速射砲や機関砲などの対戦車火器を配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破、ソ連軍は45名の死傷者を出し撃退された、第23師団長小松原は、中央や関東軍の消極姿勢にも拘わらず再戦の機会を窺っており、19日に戦況について関東軍司令部に報告する際に「防衛の責任上、進んで徹底的に膺懲(ようちょう)したい」と意見具申している。 事件の拡大には消極的であった関東軍であったが、19日に小松原の意見具申が届くと、関東軍司令部第一課で今後の方針について協議された。その席で関東軍作戦課長寺田雅雄大佐が「関東軍司令部が防衛上の責任においてこれを撃破駆逐するのは当然であるが、シナ事変(日中戦争)を処理するに最も重大影響を持つものは対英処理である」「ノモンハンの始末は対英処理がある程度進捗した時期に選定してはどうか」と慎重論を述べたところ、階級は下の辻が猛然と食い下がり「事ここに及んで、ノモンハンを放置すればソ連軍は我が軟弱態度に乗じ大規模攻勢をかけてくるだろう。撃破する自信もある」と説き、服部らも辻に同調したため、寺田の慎重論は却下されている。後に寺田は「職を賭しても主張すべきであった」と悔やみ、辻も「素直に寺田参謀の意見を採用しておけばノモンハン事件は立ち消えになったかも知れない」と反省しているが、後の祭りであった。なお、ノモンハンへの再度の出撃は小松原による意見具申の前に関東軍司令部でも検討を始めていたという証言もある。後方担当の第3課参謀芦川春雄少佐によれば、小松原の報告前の6月17日時点で、服部卓四郎や辻ら関東軍参謀がノモンハン方面の敵の跳梁に鑑み、第23師団の他、第7師団も投入し敵の撃滅を図るとする計画を検討していたとされる。 辻らは関東軍参謀会議の結果を「対外蒙作戦計画要綱」としてまとめ関東軍司令部に提出したが、計画上の使用兵力として計画していた第7師団については、関東軍司令官植田が小松原のプライドを慮り「関東軍が自分の任務を遂行するため、ノモンハン付近の敵にさらに一撃を与えることには同意する。ただし、ノモンハンは小松原師団長の担当正面である。その防衛地区に発生した事件を他の師団長に解決させることは小松原を信用しないことになる。自分が小松原だったら腹を切るよ」と目に涙を浮かべながら反対したため、作戦主任が遺憾ながら第23師団に大きな期待はかけられないと率直に申し述べると、植田はさらに「戦術的考察についてはまさにその通りである。しかし統帥の本旨ではない」と小松原への配慮を譲らなかったので、辻らは第7師団の使用を断念せざるを得なかった。作戦の見直しを余儀なくされた辻は、第7師団の中から4個大隊を引き抜き第23師団に編入するという策を講じることとしたが、この計画には初めからソ連軍との戦力差が考慮されておらず、第7師団を小松原の面子を尊重して除外したことは、第一次ノモンハン事件で小松原が手元の戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追いやった戦訓が活かされていなかった。 この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた。関東軍が作戦準備をしているという情報を聞いたモスクワ日本国大使館駐在武官土居明夫大佐は、関東軍を思い止まらせるため、モスクワから満州に向かい、道中のシベリア鉄道で見た、極東に輸送される大量の戦車や兵器類の情報を司令官の植田に知らせたが、関東軍はその情報を黙殺した。土居は、楽観的な関東軍に怒りと危機感を覚えながら帰国したが、東京に向かう飛行機内で参謀本部第4部長富永恭次少将と同席となったので、土居は「富永さん、植田司令官はノモンハン出動交戦を承認されたのですか」と聞くと、富永は苦々しげに「植田司令官は出動に内心不同意だったが、いやいやながら許可したらしい」と答えている。 関東軍の計画では、ハルハ河を渡河した地上部隊をモンゴル領内深くに進撃させることとなっていた。しかし中央の参謀本部は越境攻撃を原則禁じていたため、関東軍は越境攻撃について中央に事前相談せず秘匿することとした。昭和天皇は関東軍に不信感を抱いており、陸軍大臣の板垣が関東軍への野戦重砲2個連隊の増派の裁可を得に参内した際に、板垣の楽観的な説明に対し「満州事変の際も陸軍は事変不拡大といいながら、彼の如き大事件となりたり」と陸軍と関東軍への不信感を露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定を行ったらどうかと示唆している。許可を得ない越境攻撃は、天皇の統帥大権を犯す陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期に当たる重大な犯罪であったが、満州事変の折り、当時の朝鮮軍司令官林銑十郎が関東軍の求めに応じ、独断で軍を鴨緑江を渡らせ独断で越境したにも拘らず「越境将軍」と逆に持て囃され、首相にまで栄達(林内閣)した先例もあった。
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