ソ連軍の越境攻撃とは? わかりやすく解説

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ソ連軍の越境攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「ソ連軍の越境攻撃」の解説

6月17日になってソ連軍航空部隊の再訓練目途がつくジューコフ航空隊出撃許可し6月18日15機のソ連軍爆撃機越境して温泉方面地上部隊爆撃し人馬多数死傷、カンヂュル廟には30機のソ連軍爆撃機来襲して燃料集積所爆撃500缶の燃料焼失するという損害生じた。さらに爆撃後方のロンアルシャンにも及んだ一方で日本軍航空隊6月中旬には出撃命令下り戦闘機部隊飛行1124戦隊飛行第1戦隊新たに加わり20日 - 26日の間に3個戦隊が、カンヂュル廟、採塩所の両飛行場展開したが、参謀本部不拡大方針により出撃自重していた。6月19日には陸上部隊偵察行動開始20日からは満州国内のデブデン・スメ地区戦車装甲車十数輌とソ連軍狙撃兵モンゴル軍騎兵の約200名が来襲ソ連軍日本軍宿営地集落発見し戦車砲攻撃してきた。兵舎砲撃により炎上し集落内はパニックとなったが、この野営地日本軍速射砲機関砲などの対戦車火器配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破ソ連軍45名の死傷者出し撃退された、第23師団小松原は、中央関東軍消極姿勢にも拘わらず再戦機会窺っており、19日戦況について関東軍司令部報告する際に「防衛責任上、進んで徹底的に膺懲ようちょう)したい」と意見具申している。 事件拡大には消極であった関東軍であったが、19日小松原意見具申が届くと、関東軍司令部第一課今後の方針について協議された。その席で関東軍作戦課長寺田雅雄大佐が「関東軍司令部防衛上の責任においてこれを撃破駆逐するのは当然であるが、シナ事変日中戦争)を処理するに最も重大影響を持つものは対英処理である」「ノモンハン始末は対英処理がある程度進捗した時期選定してはどうか」と慎重論述べたところ、階級は下の辻が猛然と食い下がり「事ここに及んでノモンハン放置すればソ連軍我が軟弱態度乗じ大規模攻勢をかけてくるだろう。撃破する自信もある」と説き服部らも辻に同調したため、寺田慎重論却下されている。後に寺田は「職を賭して主張すべきであった」と悔やみ、辻も「素直に寺田参謀意見採用しておけばノモンハン事件立ち消えになったかも知れない」と反省しているが、後の祭であった。なお、ノモンハンへの再度出撃小松原による意見具申前に関東軍司令部でも検討始めていたという証言もある。後方担当第3参謀芦川春雄少佐によれば小松原報告前の6月17日時点で、服部卓四郎や辻ら関東軍参謀ノモンハン方面の敵の跳梁鑑み第23師団の他、第7師団投入し敵の撃滅を図るとする計画検討していたとされる。 辻らは関東軍参謀会議結果を「対外作戦計画要綱」としてまとめ関東軍司令部提出したが、計画上の使用兵力として計画していた第7師団については、関東軍司令官植田小松原プライド慮り関東軍自分任務遂行するため、ノモンハン付近の敵にさらに一撃与えることには同意する。ただし、ノモンハン小松原師団長担当正面である。その防衛地区発生した事件を他の師団長解決させることは小松原信用しないことになる。自分小松原だったら腹を切るよ」と目に涙を浮かべながら反対したため作戦主任遺憾ながら第23師団大きな期待かけられない率直に申し述べると、植田はさらに「戦術的考察についてはまさにその通りである。しかし統帥本旨ではない」と小松原への配慮を譲らなかったので、辻らは第7師団使用断念せざるを得なかった。作戦見直し余儀なくされた辻は、第7師団の中から4個大隊引き抜き第23師団編入するという策を講じることとしたが、この計画には初めからソ連軍との戦力差が考慮されておらず、第7師団小松原面子尊重して除外したことは、第一次ノモンハン事件小松原手元戦力出し惜しみし、東捜索隊壊滅追いやった戦訓活かされていなかった。 この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍作戦計画21日参謀本部伝えられ陸軍省交えて大論争となっていた。陸軍省軍事課長岩豪雄大佐西浦進中佐らは「事態拡大した際、その収拾のための確固たる成算実力もないのに、たいして意味もない紛争大兵力を投じ貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかまし言わないで、現地任せたらいいではないか」の鶴の一声関東軍作戦計画認められた。関東軍作戦準備をしているという情報聞いたモスクワ日本国大使館駐在武官土居明夫大佐は、関東軍思い止まらせるため、モスクワから満州向かい道中シベリア鉄道見た極東輸送される大量戦車兵器類情報司令官植田知らせたが、関東軍はその情報黙殺した。土居は、楽観的な関東軍怒り危機感覚えながら帰国したが、東京に向かう飛行機内で参謀本部第4部長富永恭次少将同席となったので、土居は「富永さん、植田司令官ノモンハン出動交戦承認されたのですか」と聞くと、富永苦々しげに「植田司令官出動内心不同意だったが、いやいやながら許可したらしい」と答えている。 関東軍計画では、ハルハ河渡河した地上部隊モンゴル領内深く進撃させることとなっていた。しかし中央の参謀本部越境攻撃原則禁じていたため、関東軍越境攻撃について中央事前相談せず秘匿することとした。昭和天皇関東軍不信感抱いており、陸軍大臣板垣関東軍への野戦重砲2個連隊増派裁可得に参内した際に、板垣楽観的な説明対し満州事変の際も陸軍事変不拡大といいながら彼の如き大事件となりたり」と陸軍関東軍への不信感露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定行ったらどうかと示唆している。許可を得ない越境攻撃は、天皇統帥大権犯す陸軍刑法第三十七条該当する犯罪で、死刑または無期に当たる重大な犯罪であったが、満州事変折り当時朝鮮軍司令官林銑十郎関東軍求め応じ独断で軍を鴨緑江を渡らせ独断越境したにも拘らず越境将軍」と逆に持て囃され、首相にまで栄達林内閣)した先例もあった。

※この「ソ連軍の越境攻撃」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「ソ連軍の越境攻撃」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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