ソ連軍の攻勢計画
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「第二次ハリコフ攻防戦」の記事における「ソ連軍の攻勢計画」の解説
1942年3月28日~30日にかけてクレムリンで春季~夏季の作戦方針を検討する戦略会議が開かれた。会議には参謀総長シャポシニコフ元帥、西方面軍司令官ジューコフ上級大将、参謀本部作戦部次長ヴァシレフスキー少将、南西方面軍司令官チモシェンコ元帥、南西方面軍参謀長バグラミヤン少将をはじめとする赤軍幹部が集結した。参謀総長シャポシニコフ元帥は積極的防御に徹して戦力の回復を図り、戦略予備を温存すべきだと主張した。それにたいしてチモシェンコは3月22日に提出した南西部での南方軍集団にたいする反攻作戦を再び主張した。チモシェンコはスタフカの戦略予備投入を求めたがモスクワへの再攻勢を恐れたスターリンは南西方面軍単独での作戦案を要求。4月10日、南西方面軍司令部はスタフカに南西方面軍の3個軍(第6軍・第21軍・第28軍)と1個機動集団を主力とする挟撃作戦で、ハリコフ市を奪回するという新たな計画案を提出した。スターリンはこの改訂された攻撃案を承認し、攻撃開始日は5月4日と定められた。反攻の主力となるのは、ハリコフ北東に展開する第28軍(リャブイシェフ中将)と、第21軍(ゴルドフ少将)であった。突出部の北翼に第6軍(ゴロドニャンスキー中将)、そして第6騎兵軍団(ノスコフ少将)と第7戦車旅団(ユルチェンコ大佐)の混成部隊であるボブキン少将率いる機動集団が南東からハリコフに迫る。第6軍と第28軍の中間に展開する第38軍(モスカレンコ少将)が、牽制作戦を行なう予定になっていた。作戦は5月12日に開始された。ドイツ側では、夏季攻勢計画ブラウ作戦が立案されていたが、その準備的作戦としてイジュム突出部を切り取ってしまう「フリデリクス作戦」が立案されていた。第6軍(パウルス装甲兵大将)が北から、第1装甲軍(クライスト上級大将)が南から、突出部の根元を挟撃するものである。
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