ソ連軍の攻勢準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
ノモンハン東岸で日本軍の攻勢が続いていた7月5日にモスクワは、今後の反転攻勢のために極東の軍の指揮系統の再編成を行った。国防人民委員の直属しチタに司令部を置く臨時編成の前線方面軍を編成し、グリゴリー・シュテルン2等軍司令官、軍事会議審議官を司令官とした。前線方面軍は極東方面の海軍を含めた全軍を統括する巨大な軍となった。さらにノモンハンで戦闘中の第57特別軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮を執らせた。従って形式上は、ジューコフはシュテルンの指揮下ということになるが、ジューコフは作戦において、シュテルンを経ずに直接軍中央と連絡できる権限が与えられており、シュテルンの前線方面軍司令部は後方支援の役割をモスクワは期待していた。しかしそれは必ずしも徹底されておらず、シュテルンは作戦に介入したがったが、ジューコフがそれを押しとどめたため後に戦闘の重要局面で両者の方針が食い違い対立することとなった。 ソ連軍は7月末から、大反転攻勢に向けて入念な準備を開始した。まずは55,000トンにも及ぶ膨大な軍需物資をピストン輸送した。ここでシュルテンは見事な手腕を発揮し膨大な物資の輸送を円滑に行った。またザバイカル方面軍から7月末に第57狙撃兵師団に第6戦車旅団、8月には第152狙撃兵連隊第1連隊と第212空挺旅団が増援として移動を開始した。モスクワは最終的にジューコフが要請してきた以上の3個狙撃兵師団、2個戦車旅団、3個装甲車旅団を増援として送り込んだ。増援の兵員数だけでも総勢30,000名以上となったが、あまりにも物資と兵員の輸送量が多かったので、一部の狙撃兵部隊は徒歩でノモンハンまで行軍させられた。7月末からのソ連軍の増強は、実質増援なしの日本軍と好対照の戦力増強であった。 ソ連軍は総攻撃準備の3週間にわたって、その意図を気づかれないように様々な欺瞞工作を行った。陣地構築中の日本軍に対し砲撃と小規模部隊による攻撃を繰り返した。特に8月1日、2日と7日、8日にかけ行われた第149狙撃兵連隊と第5狙撃兵機関銃旅団による攻撃は、欺瞞攻撃とは思えないほどの強力な攻撃であり、準備砲撃は「生きとし生けるもの全てが掃滅」されるほど激しいものであったが、いずれの攻勢もソ連軍が大損害を被り撃退されている。日本軍はこの攻撃により、大規模な偵察攻撃に慣れてしまい、大部隊の移動に警戒が薄れ、総攻撃部隊の移動を見過ごした上に、両翼の兵力を中央に集約する動きを見せ、ソ連軍は「攻撃は失敗ながら、日本軍司令部の判断を狂わせた」と評価している。 そして、総攻撃を行う主力については、その移動・集結・再編成を日本軍に気付かれないよう、全て夜間に行った。特に攻撃開始場所への移動は総攻撃前日の19日深夜から20日に渡って行われた。日本軍が無線を傍受し、電話を盗聴していることを逆に利用し、防御陣地構築や越冬準備に集中しているような偽情報を解読が容易な簡単な暗号で送った。また、情報工作の分野でも布石を打っており、ハルビン特務機関に潜入させた工作員に「ソ連軍現地司令官は準備未完了を理由に攻撃延期を申し出た」「補給困難のためソ連軍は悲鳴を上げている」などの偽情報を流している。この情報は、関東軍司令部の緊張感を緩める効果があった。 小松原はこのソ連の欺瞞工作を見抜けず、日記には8月5日「噂されし8月攻勢の企画も見えず。戦場概して平穏なり」、12日「戦線平穏」との記述が散見され、第23師団司令部の情報記録もソ連軍総攻撃2日前の18日の記述は「特に変化なし、平穏なり」、「コマツ台上羊群の放牧せるを散見せり」という緊張感のないものであった。しかし呑気な司令部と違い前線部隊は「機甲部隊がわが左翼を包囲する企図確実」(8月18日歩兵第71連隊)や「8月17日から18日にかけ、ハルハ対岸の敵は活気を呈し、渡河しつつある車輌の音を聞く。19日はその動き尋常ならず、私も一大決戦を覚悟し準備す。同夜将兵一同不眠不休で部署に就く」(井置捜索隊)とソ連の攻撃の意図を事前に察知していたが、この報告に第6軍や第23師団司令部が反応することはなかった。
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