ソ連軍の撤退と収容所の解体
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「延吉捕虜収容所」の記事における「ソ連軍の撤退と収容所の解体」の解説
1946年4月10日、ソ連軍は東北民主連軍(東北民主連軍吉東保安軍吉林分区)に捕虜収容所を引継ぐ。捕虜処理委員会が成立し、日本人捕虜は農耕隊と生産隊に編成され農業や使役にかり出されるようになった。 引継がれた捕虜はソ連において労働力として使えぬとみなされた日本人で、その数は約1200人。「満州に残留を命ず」では、延吉病院に約1000人、646収容所に約500人、28収容所に約300人と推定している。 1946年4月12日 亡くなった日本人捕虜のための慰霊祭が開かれる。 1946年4月末~5月 捕虜収容所の管理権を引き継いだ東北民主連軍は、第3病院長の元軍医中佐と646収容所の元主計小佐の両日本人幹部を殺害。 1946年6月25日、日本人の合同結婚式が第3病院の玄関前で開かれるも突然中止になる。第3病院の捕虜は28収容所へ移動するよう命令が下り、替わりに東北民主連軍の負傷兵が入る。 1946年8月、延吉捕虜収容所の鉄条網が撤去される。 1947年12月、28収容所には重病の日本人約100人が収容されていた。 満州の最東北端に近く、京図線上の延吉にあった捕虜収容所の敗戦の年の冬は、幾千とも知れぬ病死者が出て、その生活は地獄の一端を見るごとく悲惨であった。私もいく度かの危機に見舞われたが、こんな所で絶対死ぬものかとの気力と、当時二十歳そこそこの若さのお蔭か、何とか生き延びて、翌年の春を迎えることができた。その三月ごろ、ソ連軍が撤退し、八路軍と交替、長年日本軍と戦って来た八路軍は我々捕虜をどう扱うか、心配する者もあったが、彼等は来るとただちに、我々最下級の兵達を集め、「諸君は軍閥の犠牲になった人民であるからただちに収容所から解放するが、帰国する前に農村で本当の民主主義を体得してもらいたい」との趣旨の演説を行い、私たちはその翌日から、いく隊かに分かれて周辺の農村へ向ったのである。(今枝善也「朱学海さん一家」『されど、わが「満州」』文藝春秋編)
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