ソ連軍の撤退と収容所の解体とは? わかりやすく解説

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ソ連軍の撤退と収容所の解体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:39 UTC 版)

延吉捕虜収容所」の記事における「ソ連軍の撤退と収容所の解体」の解説

1946年4月10日ソ連軍東北民主連軍東北民主連軍東保安軍吉林分区)に捕虜収容所引継ぐ捕虜処理委員会成立し日本人捕虜農耕隊と生産隊に編成され農業使役にかり出されるようになった引継がれた捕虜ソ連において労働力として使えぬみなされ日本人で、その数は約1200人。「満州残留命ず」では、延吉病院に約1000人、646収容所に約500人、28収容所に約300人と推定している。 1946年4月12日 亡くなった日本人捕虜のための慰霊祭開かれる1946年4月末~5月 捕虜収容所管理権引き継いだ東北民主連軍は、第3病院長元軍医中佐646収容所の元主計小佐の両日本人幹部殺害1946年6月25日日本人合同結婚式第3病院玄関前で開かれるも突然中止になる。第3病院捕虜28収容所移動するよう命令下り替わり東北民主連軍負傷兵が入る。 1946年8月延吉捕虜収容所鉄条網撤去される1947年12月28収容所には重病日本人100人が収容されていた。 満州の最東北端に近く京図線上の延吉にあった捕虜収容所敗戦年の冬は、幾千とも知れぬ病死者出て、その生活は地獄一端を見るごとく悲惨であった。私もいく度かの危機見舞われたが、こんな所で絶対死ぬものかとの気力と、当時二十歳そこそこ若さお蔭か、何とか生き延びて翌年春を迎えることができた。その三月ごろソ連軍撤退し八路軍交替長年日本軍戦って来た八路軍は我々捕虜をどう扱うか、心配する者もあったが、彼等は来るとただちに、我々最下級の兵達を集め、「諸君軍閥犠牲になった人民であるからただちに収容所から解放するが、帰国する前に農村本当民主主義体得しもらいたい」との趣旨演説行い私たちはその翌日から、いく隊かに分かれて周辺農村へ向ったのである。(今枝善也「朱学海さん一家」『されど、わが「満州」』文藝春秋編)

※この「ソ連軍の撤退と収容所の解体」の解説は、「延吉捕虜収容所」の解説の一部です。
「ソ連軍の撤退と収容所の解体」を含む「延吉捕虜収容所」の記事については、「延吉捕虜収容所」の概要を参照ください。

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