ソ連軍の反攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:35 UTC 版)
ドイツ軍の攻勢に耐えていた赤軍は、翌16日、ブダペスト西部からウィーン攻勢を始めると、主力を温存していた第3ウクライナ方面軍は反攻に出た。すでに天候は回復して、ドイツ軍を悩ませていた泥濘は無くなっており、最初に同方面軍の第4・第9親衛軍がヴェレンツェ湖の北にあるブダペスト方面から進撃を開始、その後、他の赤軍部隊も進撃を開始したため、ドイツ軍の戦線に大穴が開いてしまい、背後を衝かれて逆に包囲される危機に直面した。しかしヒトラーは包囲される危機に直面してもドナウ川に進撃せよとの命令を下し、21日にはSS第6装甲軍の攻勢地点の近くにあるセーケシュフェヘールヴァールの死守を命令した。しかしSS第6装甲軍はその命令を無視し、逆に赤軍の包囲を避けるため、西に向けて退却を始め、10日で100km以上押し戻されてしまい、バラトン湖から撤退どころかオーストリアに向けて敗走して、作戦は完全に失敗に終わった。結果的には、戦略的に重要でない戦線で、貴重な戦力をいたずらに消耗してしまい、ドイツの敗戦を早める形になってしまった。
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