日本の航空機運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
航空戦は飛行機同士が制空権を争う航空撃滅戦と地上部隊を支援する地上直協戦に大別されるが、日本は前者をソ連は後者を重視する傾向があった。ソ連空軍の全機種が地上支援に参加したのに対し、日本陸軍航空隊は地上支援用の専門機種を持たずパイロットたちも空中戦の勝利にしか関心がなく、偵察や対地射撃の訓練もしていなかった。第一次ノモンハン事件では日本側が航空戦に圧勝したが地上では支援を欠いた東捜索隊が全滅し、航空戦の勝利は地上戦に全く影響しなかった。しかも、関東軍は無電を活用した空地連絡システムの整備に無関心で、事件後も航空撃滅戦への傾斜は進む一方だった。第23師団長小松原中将も「航空はあたかも航空自体のために動いていたかのように思われる」と不満をもらしている。 第二次ノモンハン事件でも陸軍航空隊の方針に変化はなかった。パインツァガン戦では日本側845ソーティー、ソ連側865ソーティーと出撃回数に大きな差はなかったものの、内訳は空戦65、爆撃25、偵察9と空戦の比率が圧倒的に高かった。対するソ連側は空戦18、爆撃43、偵察38と地上支援と偵察の比率が高く投下爆弾量もソ連78000発に対して日本は18000発だった。偵察面の不振は「偵察機が広角カメラを搭載していない」「地上と戦闘機の無線波長が合わない」など各種トラブルが原因であり、地上部隊も空地連絡の改善に鈍感であった。ソ連側の八月攻勢の直前には偵察機が攻勢の兆候をとらえ司令部に報告したが、関東軍はなんの反応も示さなかった。 日本軍の航空戦力が、戦況に大きな影響を与えることができなかった要因の一つとして、昭和天皇が1939年6月27日のタムスク爆撃に激怒したことに忖度した大本営が、越境爆撃の禁止を命じたことも挙げられる。ソ連中央からの物資の輸送はシベリア鉄道が頼りであり、輸送の責任者であったA.V.ノヴォブラネッツは「日本軍がシベリア鉄道のひとつかふたつでも爆撃してくれば、モンゴルのソ連軍は燃料・武器・弾薬もなくなる」と危惧していたが、タムスク爆撃以来、日本軍航空機が越境攻撃してくることがなかったため、ソ連は何の妨害を受けることなく大量の物資を前線に送り続けることができた。
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