カルタゴによる占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 00:44 UTC 版)
詳細は「セリヌス包囲戦」を参照 アテナイ遠征軍の敗北のために、セリヌスは明らかにセゲスタに対して有利となった。問題となっていた両者の紛争地域はセリヌスのものとなった。しかしセリヌスはこれでは満足せず、セゲスタに対する敵対行為を続けていたため、セゲスタは今度はカルタゴに支援を求めた。いくらかの躊躇の後、紀元前410年にカルタゴ軍はハンニバル・マゴに小規模な軍を与えてシケリアに送り、セゲスタを支援してセリヌスに勝利した。その後カルタゴ、セゲスタ、セリヌスおよびシュラクサイの間で何回かの交渉が行われたが、セゲスタとセリヌスの和解は失敗した。このため翌紀元前409年の春、カルタゴはハンニバル・マゴが率いる120,000の大軍(古代の記述による。現在の推定では30,000-40,000)をシケリアに送った。カルタゴ軍はモティア近く(後のリルバイオン)に上陸してセリヌスに向かった。セリヌスの住民はこのような大軍の侵攻を予想しておらず、抵抗準備は全く出来ていなかった。城壁には何箇所も修理していない場所があり、シュラクサイ、アクラガス(現在のアグリジェント)、ゲラ(現在のジェーラ)が約束していた援軍も準備ができておらず、間に合わなかった。セリヌス市民は城壁がカルタゴ軍に突破された後でも、それぞれの家を守って戦った。しかし圧倒的なカルタゴ軍に抵抗しても望みは無く、10日の攻城戦の後にセリヌスは陥落し、防御側は殆どが戦死した。資料によると、16,000のセリヌス市民が殺され、5,000が捕虜となり、2,600のみがエンペディオンに率いられてアクラガスに脱出した。その後、かなりの数の生存者や逃亡者が、シュラクサイを追放されていたヘルモクラテスの下に集まり、セリヌスのアクロポリスの城壁を修復してそこを根拠とし、カルタゴ領に度々襲撃を行った。これを鎮圧するために、紀元前406年にハンニバル・マゴは三度目の遠征を実施し、セリヌスの城壁を完全に破壊した。しかし、生存者に対しては、カルタゴの属領となるという条件で、セリヌスに居住することを認めた。かなりの数の市民がこの条件を受け入れ、翌紀元前405年にカルタゴとシュラクサイの僭主ディオニュシオス1世の間で締結された講和条約で正式なものとなった。
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