カルタゴとコリントスの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/08 15:16 UTC 版)
「シュラクサイ包囲戦 (紀元前343年)」の記事における「カルタゴとコリントスの介入」の解説
シュラクサイ人の一部はディオニュシオスの圧制に苦しんでおり、レオンティノイの僭主ヒケタスの元に亡命した。ヒケタスはシュラクサイ生まれでありディオニュシオスに匹敵する陸軍を有していたため、亡命シュラクサイ人達はヒケタスを指導者としてディオニュシオスとの戦争を開始した。カルタゴはシケリア西部を支配していたが、この混乱を有利に生かそうとした。カルタゴが大軍をシケリアに派遣すると、ヒケタスはディオニュシオスに対抗することを理由として、シュラクサイの母都市であるコリントスに救援を求めた。 しかしながら、ヒケタスはシュラクサイに民主政を復活させる気は無く、自分がシュラクサイの僭主になることを目的としていた。ヒケタスは秘密裏にカルタゴと交渉しながら、コリントスに救援を求めていた。コリントスは自身の戦争に忙しく、支援の要請を断ると予想したためである。もしコリントスが支援を断れば、亡命シュラクサイ人にカルタゴとの同盟を説得しやすいと考えられた。しかし予想に反して、コリントスはティモレオンを指揮官とする遠征軍を送ることを決定した。コリントスへの交渉使節が送られるとすぐに、ヒケタスはカルタゴと同盟した。その後、コリントスに対してシケリアへの遠征は時間がかかりすぎるとしてそれを中止するように書簡を出した。この裏切り行為に対してコリントスは憤慨し、このためティモレオンは遠征に参加する兵士を容易に募集することができた。 紀元前344年、ティモレオンはコリントスを出発してシュラクサイへ向かった。ディオドロスによると、ティモレオンは700人の傭兵を7隻の船に乗せており、途中でレウカディア(現在のレフカダ島)とコルフ(現在のケルキラ島)から3隻が加わった。プルタルコスはコリントスから7隻、コルフから2隻、レウカディアから1隻で兵士の合計は1,000としている。イオニア海の航海途中の夜に、ティモレオンは神々しい現象を目撃している。この現象はこと座流星群と解釈されており、もしそうであるならば紀元前344年3月21日にシュラクサイに渡ったと思われる。
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