土地利用を巡る争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
また、土地を巡る争いを動機とする研究も行われており、同盟市戦争で反乱が起った場所と、グラックス時代に土地分配が行われた場所とが重なっているという指摘もある。イタリック人にとっては、土地を巡る争いは常に不利な立場でローマ人に圧迫され続けていたとも言える。エトルリア南部の発掘調査によって、紀元前2世紀に開発が進み、紀元前1世紀にかけて人口が増加し発展していったことがうかがわれ、イタリア半島の他の土地でも、同じように開発が行われ、土地の奪い合いが起っていたのではないかと考えられている。 エトルリアには紀元前2世紀の前半にサトゥルニア(英語版)やグラウィスカエ(英語版)といった植民市が築かれ、他にも希望者にある程度の土地を与えて植民させる個人的土地分配も行われており、グラックスの土地分配委員会も活動していたことが『liber coloniarum(植民の記録)』に記されているという。また、ウンブリアには紀元前3世紀からラテン植民市が築かれ、彼らはアエミリア街道とフラミニア街道沿いに建設された植民市によって封じ込められていた。 エーゲ海沿いのピケヌム(英語版)には、サビニ人から分かれたピケンティ人(英語版)が住んでおり、肥沃な土地で果物の栽培に向いていたが、紀元前268年の執政官、ソプスとルッルスによって平定されて海岸沿いの土地を奪われ、アスクルム(英語版)(現アスコリ・ピチェーノ)周辺だけがピケンティ人のものとなり、サラリア街道が通された。それ以降紀元前184年のポテンティア入植を始めとして、グラックス時代にも入植が続き、紀元前117年にアスクルムの南を通ってハドリアへ抜けるカエキリア街道(英語版)が敷設されてからは、周囲のローマ領の発展からは取り残されていた。 中央アペニン山脈に住むウェスティニ人(英語版)、マッルキニ人(英語版)、パエリグニ人(英語版)、フレンタニ人(英語版)、マルシ人(英語版)といった好戦的な民族に対しては、紀元前303年のアルバ・フケンス(英語版)などの植民市建設以降、紀元前2世紀に活発に入植が行われていたと考えられ、紀元前154年にはパエリグニ人の首都コルフィニウムや、マッルキニ人の首都テアテを経由してアドリア海へ抜けるウァレリア街道(英語版)が敷設され、更に紀元前110年頃にはミヌキア街道(イタリア語版)も通された。このような交通の要衝であったため、コルフィニウム周辺もグラックス時代に入植が行われた可能性が高い。 イタリアの踵に当たるアプリアでも、ハンニバル戦争後の紀元前3世紀末から植民市が建設され、更にグラックス時代に肥沃なプッリャ台地に大規模な入植が行われていたことが発掘調査などから判明している(詳しくは、プッリャ州 § ローマ時代)。共和政末期にもアプリアに零細農家が存在していたことを、歴史家マルクス・テレンティウス・ウァロが記している。 最も割を食っていたのはサムニウム人で、紀元前4世紀にはソラからルケリア(英語版)まで続く植民市群によって封じ込められ、更にピュロス戦争後には、アエセルニア、アウフィデナ、アッリファエといった良い土地を奪われ、ベネウェントゥムまでの第2防衛ラインを築かれた。これによって、ヒルピニ族とペントリ族は分断され、カラケニ族はペントリ族に吸収された。ハンニバルのアルプス越え後にローマに反旗を翻したカウディニ族とヒルピニ族は更に土地を没収され、カウディニ族も自治を奪われた。 更に紀元前2世紀にはスキピオ・アフリカヌスの退役兵入植や、リグリア人の強制入植、グラックス時代の入植が続いた。例えばアエクラヌム(英語版)出身で、ティトゥス・ディディウスやルキウス・コルネリウス・スッラの下で同盟市と戦ったミナティウス・マギウス(帝政ローマ初期の歴史家ウェッレイウス・パテルクルスの祖先)のような者もおり、入植の影響によってかなりローマと同化していたと見られるが、サムニウムの他の市も影響を避けられず、先祖伝来の牧畜から農業への転換は進んでいたものと推測される。彼らにとって、豊かな土地を独占し、最新技術とローマの威光を背負ってやってくる入植者たちはかなりの脅威で、ローマで次々に土地分配法が成立したことが、ずっと土地を削られ続けていた彼らを反乱へと向かわせたのだとしても不思議ではない。
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