現代の見方
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「ガイウス・リキニウス・ストロ」の記事における「現代の見方」の解説
リウィウスはストロの公的活動にして詳細な記載をしてはいるが、その正確性に関しては疑念がもたれている。リウィウスの記述は紀元前1世紀前半の年代記録者ガイウス・リキニウス・マケル(en)に依存していると思われ、マケルは自身の祖先であるストロの業績を装飾している可能性がある。さらに、リウィウスが述べる多くの事柄は、200年後のグラックス兄弟の改革と類似した点が多い。
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現代の見方
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ターピン伝説はリチャード・ベイズの "The Genuine History of the Life of Richard Turpin"(1739年)に依るところがあるが、これは大衆の興味を満足させるため、裁判の後すぐに虚実織り交ぜて作られたものである。死刑囚の発言、犯罪者の伝記、裁判を題材にした文学は17世紀後半から18世紀初頭にかけての流行であり、現代小説の先駆けとして大衆に向けて書かれ、「歴史上に現れた乞食たちの比較として作られた」。このような文学はニュースとしてや「一般的に犯罪、刑罰、罪業、救済、地方政府の機能、社会的・道徳的な罪が語られ論じられる公開討論」として機能した。 ベイズによる報告は憶測も含まれている。たとえばターピンがエリザベス・ミリントンではなく、パルマーという女性と結婚したという彼の主張はほぼ間違いなく誤りで、ターピンが結婚した日付も、1739年には結婚して11年か12年経っていたというベイズの主張のみに基づいて語られており、実際には証拠となる書類は残されていない。エセックス・ギャング団が起こした強盗に関わったと彼が主張する人物の中には、当時の新聞に一度も書かれていない人名も含まれており、デレク・バーローによれば、これはベイズが彼の作った物語を脚色したことを示している。ベイズが描いたターピンと「追い剥ぎキング」との関係はほぼ確実に作り話である。ターピンは1734年にはすでにマシュー・キングと知り合いで、1737年2月にはキングと行動を共にしてはいるが、「追い剥ぎの紳士」の物語はおそらくベイズが事件を回顧した際にエセックス・ギャング団の末路と結びつけるために作ったものである。バーローはまた、トーマス・カイルの1739年に出版された書籍に書き添えられた、ターピンの死体盗掘事件に関する記述についても、「ほとんど尊敬に近い美しさで語られている」ため、その出所に疑問が残ると考えている。 ターピンの生前の肖像画はなく、悪名高いがすぐれた重要人物ではないため後世に残されるほどではないと考えられていた。1739年に出版されたベイズの作品には洞窟に隠れた男が版画で描かれており、それがターピンではないかと言われているが、現存するターピンの描写で最も実像に近いものはジョン・ウィーラーの「はつらつとした男で、天然痘の痕が目立つ。身長5フィート9インチ。青みがかった灰色のコートを着、明るい色の髪を持つ」という供述である。このような報告に基づき、2009年に、ヨークのキャッスル・ミュージアムは、E-FIT(en、電子的顔面同定技術)によって作られたターピンの顔を公開した。 ターピンの名を最も有名にしたのは追い剥ぎ業であるが、処刑前に報告された彼の追い剥ぎに関わる犯罪は、1737年6月に大判の高級紙に掲載された「ニュース:アイルランドへの逃亡をはかった偉大なるターピンの逮捕報告にどよめくロンドン」(英: "News news: great and wonderful news from London in an uproar or a hue and cry after the Great Turpin, with his escape into Ireland")という記事のみである。呼び売り本の題材となったターピントと同世代の人物には、ジェームズ・ハインド(英語版)、クロード・デュヴァル(英語版)、ウィリアム・ネヴィソン(英語版)などがいるが、19世紀初頭に初めて物語化されて以来、現在でもよく知られているディック・ターピンには並ぶことも無い。しかしながら、よく知られているロンドンからヨークまで馬で駆け抜けたという話は、19世紀の作家ウィリアム・ハリソン・エインズワース(英語版)が、ターピンの話に刺激を受けて潤色を加えつつ書いた小説『ルークウッド(英語版)』(1834年)中の作り話である。エインズワースは物語の中でターピンを狂言回しとして登場させ、ほかの登場人物よりも生き生きと描いている。ターピンはパルマーという偽名で紹介され、のちに愛馬ブラック・ベスに乗って逃亡しなければならなくなる。ブラック・ベスは追撃の手を逃れたが、旅のストレスで遂には死んでしまう。この場面はもっとも読者を感動させ、ターピンは罪人としての人生を魅力的に見せる愛すべき登場人物として描かれたため、この物語はターピンを取り巻く現代の伝説の一部を形作った。画家のエドワード・ハル(英語版)はエインズワースの作品を利用し、ターピンの所業の中で重要な6つの事件を描いた版画を公開した。 向こう見ずな大胆不敵さがターピンの主な特徴であった。偉大なるネルソンのように、彼は恐れというものを知らなかった。見知らぬ者の手の中に落ちた時にも堂々として自分の力量を疑わず、判決を言い渡されても平気であった。[…]ターピンは今では失われてしまった最後のローマ人勇者であったと考えると彼を失ったことが悔やまれるほどだ。彼の後釜は何人かいたことは確かであるが、名前が記録されるほどの価値はない。大勢の「路上の騎士」の胸に秘められていた騎士道精神は、彼の死と共に消え去ってしまった。路上で鹿毛の馬に乗った陽気で勇敢なクロード・デュヴァルに息づいていた、冒険を情熱的に愛し、婦人に尽くす精神は、英雄ターピンを縛り上げた無慈悲な縄によって遂に消されてしまった。 “ ” ウィリアム・ハリソン・エインズワース(英語版)、『ルークウッド(英語版)』(1834年) エインズワースの描いた、ターピンが雌馬ブラック・ベスに乗ってロンドンからヨークまで一晩で走り抜けた物語は、ダニエル・デフォーが1727年に書いた作品『グレートブリテン全島周遊記』(A tour thro' the whole island of Great Britain)に収録された物語に起源がある。1676年にケント州で強盗を働いたウィリアム・ネヴィソンが、アリバイを作るためヨークまで馬を飛ばしたとされ、この話を書いたデフォーの描写が庶民の伝説となった。似たような物語がは、早くも1808年にはターピンをモデルに語られ、1819年には演劇になったが、エインズワースが想像した200マイル (320 km)を1日以内で走り抜けるという離れ業は不可能なものである。しかしながら、エインズワースの創作したブラック・ベスの伝説は、小説『ブラック・ベス』"Black Bess" や『街道の騎士』"The Knight of the Road" などで繰り返し語られ、1867年から1868年にかけて、254冊ものペニー・ドレッドフルが出版された。これらの物語中でターピンは、信頼する仲間クロード・デュヴァル、トム・キング、ジャック・ランを従えるヒーローとして描かれている。さらに、イギリスの犯罪をロマンティックに語るという伝統文化にならい、ターピンはあばたのある殺し屋から「路上の紳士で弱きものの見方」(英: "a gentleman of the road [and] a protector of the weak")に変貌している。これらの作品は、最古の例である『ディック・ターピン』(1737年)など、ターピンを題材にした物語詩に反映されている。のちの物語詩では、18世紀のロビン・フッドに似せて「ターピンは捕まって裁判にかけられたが解放され、闘鶏で死んだ」とされている。 ターピンに関する物語は20世紀に入ってからも出版され続け、この伝説は演劇にもなった。1845年、脚本家のジョージ・ディブディン・ピット(英語版)はターピンの人生で最も重要な「事実」を作り直し、1846年にはマリー・タッソーが マダム・タッソー蝋人形館のコレクションにターピンの蝋人形を加えた。1906年には、俳優のフレッド・ギネットが映画 "Dick Turpin’s Last Ride to York" を自作自演した。ほかにもいくつか無音映画が銀幕に登場し、脚色の中にはターピンがロビン・フッドに似せて現れるものもある。1974年にはシド・ジェームズ(英語版)はキャリー・オン・シリーズ(en)の映画 "Carry On Dick"(en)でターピンを演じ、ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン(英語版) (LWT) は、有名シリーズ『ディック・ターピン(英語版)』でリチャード・オサリヴァン(英語版)をターピン役に据えた。
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