レイプ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 04:27 UTC 版)
「アルテミジア・ジェンティレスキ」の記事における「レイプ裁判」の解説
アルテミジアはそのあり余る才能にも拘らず、女性であるがゆえに美術のアカデミズムと接触することは決して叶わなかった。1612年(一説には1611年)、父オラツィオはアゴスティーノ・タッシとともに、ローマのパラヴィチーニ・ロスピギオージ・パレスの装飾に取りかかった。オラツィオは娘アルテミジアにトスカーナ派の技法を身につけさせるため、私的にタッシを教師として雇ったのだが、タッシはアルテミジアに虚偽の結婚を約束し性的関係をもち、それは父の知るところとなる。激怒したオラツィオはタッシを強姦者として教会に訴えた。その裁判において、アルテミジアは身体検査や取り調べで指をいためつける拷問をされるなど、いわゆるセカンド・レイプを公からうけることになった。アルテミジアは他の男友達とも関係があった、タッシとは親密な仲だったなど、タッシの友人らの証言により、最終的にタッシは無罪放免となり、アルテミジアには「売春婦」、「だらしない女」というレッテルが貼られた。1612年から1613年にかけて描かれた『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』は、そういった男性社会に対するアルテミジアの心理が、ユダヤの女性英雄の姿を借りて表されているというのが現代の見方である。当時のローマでは公開処刑が頻繁で、カラヴァッジオも斬首された瞬間の人物を描き、上流階級のサロンで残酷な詩の朗読が流行るなどしていたため、アルテミジアの力強いユーディットは先の裁判もあって注目を集め、画家として知名度を大きく引き上げた。
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