紀元前368年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 03:15 UTC 版)
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十年紀 | 前380年代 前370年代 前360年代 前350年代 前340年代 |
年 | 前371年 前370年 前369年 紀元前368年 前367年 前366年 前365年 |
紀元前368年は、ローマ暦の年である。
当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元386年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前368年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
- 前年のマケドニア王国によるテッサリアへの介入が成功した後に、マケドニア軍が撤退すると、フェライのアレクサンドロスの圧政は以前にも増して苛烈なものとなった。このためテッサリア人たちはテーバイに支援を求めた。テーバイはペロピダスを派遣したが、アレクサンドロスは約束を違えてペロピダスを捕らえ、投獄した。
- これに対して、エパメイノンダスはテーバイ軍の指揮者に復帰し、テーバイ軍を率いてテッサリアへ侵攻し、テッサリア人たちに策をめぐらせ、戦うことのないままペロピダスの解放を勝ち取った。
- 義弟アロロスのプトレマイオス (en:Ptolemy of Aloros) の煽動により、マケドニア王アレクサンドロス2世が、祝祭の最中に暗殺された。王弟ペルディッカス3世が即位したが、まだ歳若く、プトレマイオスが摂政に任じられた。
中国
哲学
誕生
死去
脚注
注釈
出典
関連項目
紀元前368年
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「古代ローマの独裁官一覧」の記事における「紀元前368年」の解説
マルクス・フリウス・カミッルス IV、公務のため。選出に瑕疵がありすぐ辞任
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