リルバイオン包囲戦とは? わかりやすく解説

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リルバイオン包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/09 19:13 UTC 版)

リルバイオン包囲戦
戦争:第二次シケリア戦争
年月日紀元前368年
場所:リルバイオン(現在のマルサーラ
結果:カルタゴの勝利
交戦勢力
シュラクサイ カルタゴ
指導者・指揮官
ディオニュシオス1世 ハンノ?
戦力
陸軍25,000、軍船130 不明
損害
不明 不明
シケリア戦争

リルバイオン包囲戦は、紀元前368年シュラクサイ僭主ディオニュシオス1世が、シケリア(シチリア)西部のカルタゴ都市であるリルバイオン(現在のマルサーラ)を包囲した戦い。シュラクサイ海軍がカルタゴ海軍に敗北したため、ディオニュシオスは撤退した。

概要

この戦いは、シケリアからカルタゴを追い出すというディオニュシオスの野望の一環として実施された。ディオニュシオスは紀元前405年に僭主の座について以来、4回に渡ってシケリア西部を支配するカルタゴに挑んでいた(紀元前405年紀元前398年紀元前394年紀元前383年)。紀元前398年には、シケリア西部のカルタゴ都市であるモティアを攻略・破壊していた(モティア包囲戦)。翌年にカルタゴはモティアを奪回したが、その再建は行わず、近傍にリルバイオンを建設した(モティアは現在のサン・パンタレオ島で、人口に比して面積が十分でなかった)。

リルバイオンはシケリアにおけるカルタゴの最重要拠点であり、土地は安定した岩盤で海から守られ、また広い砂浜もあった。都市を守る城壁も建設されていたために、その攻略は困難であった[1]

ディオニュシオスは少なくとも25,000の陸軍と130隻の軍船を持って、シケリア西部に5回目の侵攻を開始した。親カルタゴ都市であるセゲスタ(現在のカラタフィーミ=セジェスタのセジェスタ遺跡)、エンテラ、およびエリュクス(現在のエリーチェ)は付近の略奪を避けるために降伏した。続いてディオニュシオスはリルバイオンに兵を向け、これを包囲した。シュラクサイ海軍がドレパナ(現在のトラーパニ)に停泊している際にカルタゴ海軍(ハンノが率いていたとの説[2]もある)の攻撃を受けシュラクサイ艦隊は壊滅した。このため海上からの封鎖が不可能となり、ディオニュシオスは包囲を解いて撤退した[3]

紀元前367年にディオニュシオスは死去し、シケリア全土を支配するという野望は達成されなかった。

参考資料

  1. ^ Touring Club Italiano, Sicilia, Touring Editore, page 305
  2. ^ Warmington, Carthage (1964) at 115-116.
  3. ^ Diodorus Siculus XV. 73.

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