イスラームのイベリア半島上陸とは? わかりやすく解説

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イスラームのイベリア半島上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 08:55 UTC 版)

アンダルス」の記事における「イスラームのイベリア半島上陸」の解説

ムスリムによるイベリア半島征服活動711年ウマイヤ朝アラブ人イフリーキヤ北アフリカ総督ムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)の部下ベルベル人ターリク・ブン・ジヤードが7000人のベルベル人兵士からなる軍を率いてジブラルタル上陸しその後すぐに5,000人の追加派遣がなされ総勢12,000人の軍が侵攻したことから開始された。さらに翌年総督ムーサー自らアラブ人兵士10,000の軍を率い侵攻した。これらのイスラーム軍により西ゴート王国滅ぼされ714年にはイベリア半島ほぼ全域がその支配下となった713年夏にムーサーカリフ承認なしに行動したとして非難されワリード1世によりダマスカス召還命令出されたので、西ゴート王国王侯400人と奴隷財宝伴って帰還の途についた715年2月ダマスカス到着したものの、非は咎められずに凱旋として遇されカリフによる祝宴催された。 ムーサー召還命令受けたとき、アンダルス彼の第2子アブドゥルアズィーズ英語版)に委ねられ、後にアブドゥルアズィーズ初代アンダルス総督任じられたものの、716年暗殺された。アブドゥルアズィーズ総督官邸をイシビーリーヤ(後のセビリア)に置いたが、6代目アンダルス総督サムフ・ブン・マーリク・ハウラーニー(英語版)はこれをコルドバ移し後ウマイヤ朝に続くこととなった中東異なりイベリア半島においてはアラブ人ベルベル人兵士軍営都市ミスル)に集住せずに農村地帯散らばった。このときの入植地は、ウマイヤ朝支配層アラブ人アンダルス南部肥沃な地帯であったのに対しベルベル人北部辺境あるいは山岳地帯であった

※この「イスラームのイベリア半島上陸」の解説は、「アンダルス」の解説の一部です。
「イスラームのイベリア半島上陸」を含む「アンダルス」の記事については、「アンダルス」の概要を参照ください。

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