他の思想との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 07:10 UTC 版)
「イブン・タイミーヤ」の記事における「他の思想との関連」の解説
イブン・タイミーヤは宇宙は意思を伴う神の行動によって無から創造されたもので、人間は啓示を受けて初めて神を認識できると考えていた。この点で宇宙は神から流出したもので、人間は理性の行使によって神を認識できると考えていたイブン・スィーナーと、哲学的な立場を異にする。 イブン・タイミーヤは汎神論を説くスーフィー、世俗権力におもねるウラマーを厳しく批判し、両者と対立した。スーフィーの中でも、イブン・タイミーヤは特にイブン・アラビーの思想に強い拒絶を示していた。イブン・アラビーが主張する存在一性論(造物主である神と被造物の存在は本質的に同一とする理論)は正しいイスラームの信仰の在り方から外れ、偽救世主が出現する予兆とも捉えていた。モンゴルの侵入、シャリーアの形骸化といったイスラーム社会に訪れた危機は、イブン・タイミーヤにとっては存在一性論者の出現によってもたらされた現象だった。1304年にイブン・アラビーの著書『英知の台座』への反論を著し、1304年/05年にイブン・アラビーの支持者であるカリームッディーン・アームリーとナスル・マンビジーにイブン・アラビーを批判する書簡を送った。1305年にイブン・タイミーヤはダマスカスのアフマディー=リファーイー教団が鉄の首輪をはめ、火をくぐって蛇を飲む奇行を弾劾した。リファーイー教団のスーフィーたちはダマスカスの代官にイブン・タイミーヤへの訴訟を起こしたが、結局イブン・タイミーヤの主張が受け入れられた。リファーイー教団の人間が悔い改めを求めると、イブン・タイミーヤはクルアーンとスンナに従うことを条件に彼らに許しを与えた。 イブン・タイミーヤはスーフィーたちが唱える存在一性論、俗化したスーフィー教団の儀礼を非難したがスーフィズムの思想自体は認め、禁欲と信仰に則る生活を送るスーフィーを「真理に通じた人々」として高く評価した。同時に、それらの「真理に通じた人々」は尊敬の対象となるが、廟の参拝やスーフィーたちに対する祈祷など、彼らに対する献身が外的な形式を帯びてはならないと考えていた。イブン・タイミーヤにとってスーフィズムの儀礼であるジクル(神の名の暗唱)は崇拝の形に含まれるが、サラート、クルアーンの暗唱に比べて宗教的価値は低いと見なしていた。宗教的恍惚への到達を目的とするサマーウ(音楽の鑑賞、詩吟、舞踏)の効果をワインの効用に例え、サマーウの道徳上の危険性を指摘した。また、イブン・タイミーヤが批判したスーフィーはイブン・アラビーの信奉者に限られたと推測し、タイミーヤの属するハンバル学派とスーフィズムの親近性を指摘する意見もある。 イブン・タイミーヤはキリスト教徒の祝祭に参加し、安息日を取るユダヤ教徒の習慣を真似たムスリムを厳しく批判し、社会的に交流を持つ場面でもあっても、それぞれの宗教共同体の区別を付ける重要性を説いた。 イスラーム学者の中には、イブン・タイミーヤを異端とみなす者も多い。しかし、同時代の人間にはイブン・タイミーヤに敬意を抱いていた者も多く、イブン・タイミーヤの拘禁に反発した暴動、騒乱が発生した。また、イブン・タイミーヤの思想とスーフィズム思想の併存、調和を試みたムスリムも存在していた。中央アジアのナクシュバンディー教団では、イブン・タイミーヤとイブン・アラビーの両方の思想が研究され、イブン・タイミーヤはシャリーアにおけるイマーム、イブン・アラビーはハキーカ(スーフィーが追求する真理)のイマームと見なされていた。没後しばらくの間はイブン・タイミーヤの思想は省みられなかったが近世以降にサラフィー主義者によって再評価されるようになり、ワッハーブ派の成立など、イスラム改革運動に影響を与えることとなった。 だが、タイミーヤの思想はアルカイダなどのイスラム過激派にまで影響を与えており、2015年に過激派組織ISILが拘束していたヨルダン空軍のムアズ・カサースベ中尉を焼殺する際にその根拠としてタイミーヤの発言を引用している。
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