存在一性論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 20:34 UTC 版)
「ハイダル・アームリー」の記事における「存在一性論」の解説
ハイダルはまた、「存在一性論的」概念の決定的深化を成し遂げた思想家であるとも見なされる。イブン・アラビーの形而上学に触発され、ハイダルの用語で言う存在論的タウヒードは、正統的神学者や大衆迎合神学者らの「神学的タウヒード」に反対する。後者がひたすらシャハーダの「神のほかに神なし」に根拠を置くのに対し、前者は次のように言い表される:「存在の中に神のほかには何もない」。これこそが、一つであることと存在することとを等号で結ぶことを成し遂げて、(神の)存在の中に一体性/唯一性(タウヒード)を打ち立てる、イスラームの神秘的神智学・秘教主義のテーゼである。ハイダルのテーゼは、これを禁じられた汎神論の一つにすぎないと考える神学者から、常に攻撃にさらされてきた。しかし、その意図はより高邁であった。ハイダルの説は、「在るということ」「存在するということ」の形而上学的多元論に存在論的根拠を与えることを問題にした。もし神が「在らしめる純粋な行為」であり、「(他を)在らしめる唯一の存在」であるならば、存在の外側には無があるのみであるから、神は存在の中に複数の存在を置くことになる。ハイダルによれば、「在らしめる純粋な行為」とは、創造主が「絶対的に働きかける動作主」であるとともに、世界が「絶対的に受け容れるもの」であることを意味する。世界が受け取るものであり世界に対して動作主であるものこそ、名の多様性、天地創造に息吹を与えた神性である。換言すれば、すべての多様性は、程度の差こそあれ、常に神の顕現であらざるをえない。多様性の存在論的一貫性は、根拠を持ち、確実なものとなる。そして、すべては幻想であると考える幻想は、最低で最悪のものであるということが白日の下に曝される。ここでハイダルは、世界を虚無化し、信仰の基礎を毀損する、神への虚しさに取りつかれた幾人かのスーフィーたちの態度や信条に対して狙いを定める。彼らによれば、天地創造、天国(ジャンナ)、地獄(ジャハンナム)、審判の日における復活というものは、幻想であるとされていた。最終的には、ハイダルの存在論全体は、神を知ることなく神を熱愛する教条的な神学者(ムタカッリムーン)に肩入れせず、自分自身を消滅させること(ファナー)を望む神秘主義者にも肩入れしない。
※この「存在一性論」の解説は、「ハイダル・アームリー」の解説の一部です。
「存在一性論」を含む「ハイダル・アームリー」の記事については、「ハイダル・アームリー」の概要を参照ください。
- 存在一性論のページへのリンク