存在を意味する「法」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 08:00 UTC 版)
「法 (仏教)」の記事における「存在を意味する「法」」の解説
「一切の法(=ものごと)は無我である」(諸法無我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。 パーリ仏典, ダンマパダ 20, Sri Lanka Tripitaka Project 存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。唯識思想では、現象と本質を区別し、現象を法(Dharma)といい、本質(客観と主観との二元的対立をこえたところに現前する事物の本来的あり方)を法性(Dharmatā)という。 勝義諦(しょうぎたい)とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」といわれる。 「世間#世間と出世間」も参照 この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相、軌生解故」と規定している(『倶舎論宝疏』)。 古い仏典では五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である無常法そのものではなく、存在を存在あらしめている「色・受・想・行・識」の構成要素として、特性と特相をもっているものをいう。 また「十二処」という表現もされ、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。 このように「法」が存在を意味する場面がある。 後には、形而上的な思惟によって[要出典]「法」を有為法と無為法とに分けて考えられることになる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変の法を説く。部派仏教の説一切有部や、大乗仏教の瑜伽唯識学派などは、この存在としての法を、五位七十五法とか五位百法と詳しく分類した。
※この「存在を意味する「法」」の解説は、「法 (仏教)」の解説の一部です。
「存在を意味する「法」」を含む「法 (仏教)」の記事については、「法 (仏教)」の概要を参照ください。
- 存在を意味する「法」のページへのリンク