存在への勇気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)
ティリッヒは信じるということは疑うことと切り離すことができないと考えている。神は対象として確かめることができないから、もちろん理論的に証明することはできず、信仰は実存的な決断にならざるを得ない。よって不確実性を内に孕んでおり、誠実さがあれば疑いは避けて通れないと言える。しかし疑いのうちにおかれながらも、それにもかかわらず信じることは、否定のうちから発してしかも否定を凌駕する大いなる肯定であり、疑いをただ避けようとする信仰とはまた別の信仰である。疑うことは信仰にとってマイナスでしかないという考えは、疑いに置かれたものにとって罪の意識を強めるばかりだが、疑いがあることはむしろ人にとって自然だとティリッヒは考える。非存在は存在と同様に根本的であり、人は絶えず非存在の脅威におびやかされている。しかし、だからこそ存在が無に抗して自己を肯定すること、勇気が必要とされる。勇気には個人としての自己の肯定である個人化の勇気と包括的部分としての自己の肯定である参与の勇気とがあるが、無の不安を引き受けることのできる大いなる肯定を個人や社会から得るのには限界があるため、それらを超越する存在の力に根ざしていなければならない。懐疑に抗して信じることも、非存在に抗して存在する(生きる)ことも、根は存在の力から発する。存在の力、すなわち宗教経験の世界のうちでの「個人化」は神と人との人格の交わりであり、ここでの「参与」は存在の根底へと参与することで合一へと接近する神秘主義である。人格的交わりにせよ神秘主義にせよ、それは究極のものとの関わりであるから勇気の最大の源泉となる。 サルトルは「神が存在するとしてもたいしたことではない」と言った。人は結局は孤独に、神とは関係なく実存を決定しなければならないというのが彼の考えだが、ティリッヒの考えはその逆である。彼にとって信仰とは対象である神を信じることではなかった。彼の信仰の定義は究極的関心によって捕らえられている状態であり、神と関わるものは根底から変わらざるをえない。信仰は単なる判断や認識にとどまらず全人的な変革をもたらすものなのである。ヴォルテールは「神が存在しないならば、発明しなければならない」と言った。ティリッヒの神観ではそのような神は退けられる。神は信じることによって存在するようになり、信じるのをやめれば存在しなくなるようなものではない。信じようと信じまいと「存在する」のではなしに、存在それ自体として働いているのが神なのである。
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