存在はレアールな述語ではない
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:07 UTC 版)
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「存在はレアールな述語ではない」の解説
カントが『純粋理性批判』の中で行った存在についての分析。ハイデガーが『現象学の根本問題』の中でも大きく取り上げた立場。存在は物事の性質ではない、存在は存在者ではない(「存在」というのは、それ自体は何か「具体的に存在しているもの」ではない)といった意味を持つ。 カントはこのことを次のように表現している。ここでターレルとは当時のお金の単位である。 「現実的な100ターレルは可能的な100ターレルより以上のものをまったく含んでいない」(A599/B627) 現実に存在している100ターレルと、想像上の100ターレルとの間には、事象内容について違いがない、ということをカントは言った。つまり一方が丸いなら、他方も丸い、一方が金属なら、他方も金属であり、そこに事象内容の違いとして記述できる差異というものを見つけることはできない。 これがどういう考えであるかを、永井均は次のような形で表現している。 ライプニッツ的に表象するなら、神は自分の知性の中にある世界のうちからある一つを選んで創造(つまり現実化)する。創造の前後で異なるのは可能的か現実的かという点だけで、内容的規定性に関しては微塵の変化もない。しかしそれなら、神はその創造行為においていったい何をしたことになるのか?一切の内容的規定性が入り込めないのだから、そこには「何」がないことになる。神が何をしたのかを語ることは一切不可能ということになるのだ。 (p.34)… ライプニッツ的な描像を逆手にとって、神が世界から現実世界であるという性質だけを取り除いて、それを単なる可能世界の一つに降格させたとして、世界にどのような変化があるのか?何の変化もないだろう。<何か>が失われるのだとしても、その落差を表象する方法をわれわれは持っていないだろう。(p.41) … 世界に関しては、事実、それでおしまいなのである。現実的な「現実世界」と可能的な「現実世界」の区別は、事実、つけられないのだ。 (p42) — 永井均 (2008) 「なぜ世界は存在するのか―なぜわれわれはこの問いを問うことができないのか」 ゆえに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」すなわち「なぜ世界は存在するのか」という問題については、 答えとして語るべきことが原理的にない。(p.29) — 永井均 (2008年) 「なぜ世界は存在するのか―なぜわれわれはこの問いを問うことができないのか」
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