存在への疑義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 06:41 UTC 版)
「日向灘地震 (1498年)」の記事における「存在への疑義」の解説
東京大学地震研究所の原田智也は、この地震を記した唯一の記録『九州軍記』が地震の発生から100年以上経過して書かれたものであり、記述内容を検討すると、この日向灘の地震が創作である可能性が高いと推定している。6月11日の地震で確かな記録は『御湯殿上日記』などに記述された京都や奈良などの記事のみとなる。 以下がその根拠である。 『九州軍記』には、僧了圓による慶長十二年(1607年)四月と記された序がある。序によると、軍記は肥前国草野村において、烏笑軒常念(文禄四年(1595年)没)、草野入道玄厚によって書き継がれ、慶長六年(1601年)に完成した。また、軍記完成から約250年後の史料であるが『橘山遺事』によると、了圓も軍記の修正と補筆を行っていたようだ。よって、玄厚(と了圓)は、文禄五年(1596年)の慶長豊後地震を近くで体験していると考えられ、その体験や情報が軍記の創作に影響した可能性が考えられる。 明応七年六月十一日の地震の記述がある章は、明応七年に終わる章と永正二年(1505年)から始まる章との間にあり、文亀三年(1503年)の飢饉と、応仁の乱以降の戦乱と度重なる災害による民衆の苦しみが記述されており、後に続く物語の舞台設定の性格が強い。また、この章には、過去の大地震が列挙されているが、このことから作者が過去の大地震を調べることができたことが分かる。よって、明応七年六月十一日の地震も、年代記等から調べられたと考えられる。したがって、地震や飢饉がその後の物語を盛り上げるために利用されており、地震による九州の大被害も創作である可能性が高い。 地震被害の記述には、具体的な地名が無く、大地震による一般的な被害の描写である印象を受ける。また、この地震記述と酷似した記述が、『九州軍記』より前に成立した『太平記』や『平家物語』といった軍記物語にみられる。さらに、軍記には、この地震が巳刻に発生したと記述されているが、この時刻は、明応七年八月廿五日(ユリウス暦1498年9月11日)の明応東海地震の発生時刻である辰刻に近い。実際、同時代史料である『親長卿記』や『塔寺八幡宮長帳』では、明応東海地震の発生時刻を巳刻と記している。したがって、軍記の作者が、明応東海地震と六月十一日の地震を混同していた、あるいは、混同して記された文献に基づいて、六月十一日の地震とその被害を描写した可能性がある。そう考えると、同じく軍記に記された「今度ノ地震ハ九国ノミニ不限、四国・中国・畿内・東海・北国・奥州ノ果迄モ残ル所ナシ、」という記述も、それほど不自然ではなくなる。
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