存在の意味の問い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:10 UTC 版)
本書巻頭言はプラトンの対話篇『ソフィステス』の引用から始まる。 「『ある』という言葉でもってわれわれが一体なにを思い描いているのか、という問いの答えを、今日われわれは持っているだろうか? われわれはいままでその答えを持っていると思い込んでいたのに、いまではまったく心もとなくなっている。」 ハイデッガーは序論第1章第1節において、「存在の問い」(Die Frage nach dem Sein)の必然性を明らかにする。本書で彼が取り上げるのは、存在の意味についての問い―ある(Sein)とはどういうことなのか?―である。 彼によれば、古代ギリシアに問われたこの問いに対する解答はいまだないだけでなく、実は明確な形で設定すらされていないのであり、むしろ忘却されている。したがって、この問いに対する解答を求める前に、まずこの問いを明確な形で設定する必要がある。そこで、彼はまず「問う」こと自体の形式的な構造を明らかにすることを出発点とする。ハイデッガーによれば、「問う」ということには次のような三つ要素からなる。 問われているもの(Gefragtes) 問いかけるところ(Befragtes) 問いによって求められたもの(Erfragtes) これは存在の問いでいえば、 問われているもの=存在 問いかけるところ=存在者 問いによって求められたもの=存在の意味 となる。 つねにすでに事実として漠然とした「存在了解」をわれわれはもっているのであるが、それには伝統的な学説や見解がさまざまに浸透しており、その了解内容の源泉が何であったのかすら不明になっている。さしあたりこの漠然とした存在了解の意味を明らかにするためには、あまたの存在者の中から、問うということ自体を自己の存在の可能性として備えているところの存在者、つまり、われわれ人間自身の構造が問われなければならない。ハイデッガーは、このような問題設定における人間を現存在(Da-sein)と呼んだ(序論第1章第2節)。 彼は続いて、自然科学のように存在者が存在することは前提にしてしまった上でその性質や他の存在者との関係などを問う存在的なあり方(ontischen、オンテッシュ)と、存在者が存在することそのものを問う存在論的なあり方(ontologisch、オントロギッシュ)を区別する。現存在は、他のあらゆる存在者に対し、存在論的な優位があるとハイデッガーは述べる。したがって、現存在の分析論は、すべての存在者の意味に関する存在論の基礎を与え、他の学問の基礎付けとなる「基礎的存在論」(Fundamentalontologie)でなければならないのと同時に、個人の実存的体験を基礎とする「実存論的分析」(existentiale Analytik)でなければならないのである(序論第1章3節)。また、彼は、実存論的分析論は、実存的、言い換えるならば存在的な根を有しているという。したがって、現存在は、他のあらゆる存在者に対し、存在的な優位もあることになる(序論第1章4節)。 現存在とは、存在の問いに解答を与えるためにまず問いかけられる対象でもあるが、何より、それ自身がこの問いにおいて問われるものへ向かって、つねにすでに関わり合っているところの存在者である、とハイデッガーは主張する。したがって、現存在は、その存在構成として前=存在論的存在というものが備わっている。言い換えるならば、現存在は、自ら存在しながら、存在ということを「了解」している、という様相で存在している。そこからハイデッガーは現存在が存在を暗黙裏にでも了解していることの基礎になるものは「時間」であると主張し、この現存在の存在としての「時間性」を解明することによって、存在了解の彼方にある究極的な時間を根源的に解明することができるとした。彼によれば、この究極的な時間性の現象の中にあらゆる存在論の中心的な問題の根源と、そのことの経緯があるのである(序論第1章第5節)。
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