存在と時間とは? わかりやすく解説

存在と時間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 13:23 UTC 版)

『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツ哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。


  1. ^ なお『Sein und Zeit』という書名に『有と時』と日本語訳をあてることもあった(辻村公一など)。この古風な訳出は、『Sein und Zeit』のSeinが「~がある」という意味だけでなく「~である」という繋辞をも意味することに鑑みており、繋辞という文法が汲み取りにくい「存在する」にたいし「有る」という翻訳に一定の有用性はなくはない。
  2. ^ そのため、その大部分が現存在の実存論的分析に費やされ、本書は実存主義の著作であると長い間誤読され続けてきた。
  3. ^ 彼は、生物学物理学心理学といった存在論的なカテゴリーにおいて研究される特定の存在者について問いには関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」といった存在論的な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。
  4. ^ ここでは、問われているものの中に問いによって求められたものが潜んでいるのではないかという循環論法について簡単な反論が述べられている。詳細は後に「解釈学的状況」(hermeneutische Situation)ないし「解釈学的循環」(Hermeneutischer Zirkel)として述べられる。
  5. ^ 『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。
  6. ^ このような現象学方法は、デカルト的「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―を否認する。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という二項対立図式をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。


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