互いへの寛容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:52 UTC 版)
「プロテスタンティズムとイスラーム」の記事における「互いへの寛容」の解説
オスマン帝国のスルタンは、領内におけるキリスト教とユダヤ教の信仰に寛容を示すことで知られていた。一方、スペイン王はプロテスタントの信仰を許さなかった。事実、当時、オスマン帝国は宗教的寛容で知られていた。さまざまの宗教的亡命者、たとえばユグノー、イングランド国教会、クエーカー、再洗礼派、さらにイエズス会、カプチン・フランシスコ修道会の亡命者が、オスマン帝国各地やイスタンブールに亡命することができた。ここでは、居住と信仰の権利を与えられていたのである。さらに、オスマン帝国はトランシルヴァニアやハンガリーのカルヴァン派だけでなく、フランスのカルヴァン派をも援助したのである。当時のフランス思想家ジャン・ボダンは、次のように著している。 トルコの偉大なる皇帝は、世界の如何なる王子がするような献身をもって、父祖以来の信仰を守ってきたのみならず、他の異なる宗教に嫌悪を示さなかった。のみならず、自らの信仰に従って生きることをお許しになったのである。いな、それ以上に、ペラの宮殿のそばに、ユダヤ教、キリスト教、ギリシア正教、さらにイスラームを受け入れたのである。 マルティン・ルターは1528年、まだ悲劇的なウィーン包囲が起こる前であるが、その時に書いたパンフレット『トルコに対する戦争』の中で、オスマン帝国のヨーロッパへの侵入に抵抗することをドイツ(ゲルマン)の人々に呼びかけている。この中でイスラームへの見方は、彼の激烈な反ユダヤ主義に比べれば穏やかなものである。ルターは、イスラームの教義を広く批判していながら、他方でイスラームの信仰に寛容を示しているのである。 トルコ人に自らの望む信仰と生活をさせなさい。ちょうど、教皇と他の間違ったキリスト教徒が生活しているように。 しかし、ここに記されている「トルコ人」が、特別な支配者を指すのか、イスラーム教徒全般なのかははっきりしていない。マルティン・ルターの相反する態度は、彼の他のコメントにも現れている。そこでは、次のように書いている。 気の利いたトルコ人は、間抜けなキリスト教徒より、すぐれた統治者である。
※この「互いへの寛容」の解説は、「プロテスタンティズムとイスラーム」の解説の一部です。
「互いへの寛容」を含む「プロテスタンティズムとイスラーム」の記事については、「プロテスタンティズムとイスラーム」の概要を参照ください。
- 互いへの寛容のページへのリンク